高橋巌の「シュタイナー哲学入門」を読め!【ルドルフシュタイナーのwikipedia記述に笑う】

Wikipediaを見るとルドルフ・シュタイナーの説明にこうあるw:

「1914年に戦争が起こると、シュタイナーは戦争を起こしたのはダーク・フォースだと主張した[23]

笑える。ダークフォースって何?これがwikipediaであり、本当にレベルが低い。しかも出典が英語だってさ。なぜドイツ語の文献を持って来なかった?説明する人がそんなんで大丈夫だろうか?

日本人のことをイギリス人が文献で触れてドイツ語で説明したらどうなる?文化のニュアンスが全然違うことに鈍感でいられる神経が信じられない。最近こういう日本人ばかりだ。

日本人が駄目になり、ドイツの事もわからない

良い事もあれば悪い事もある。全ては捉え方であり、ポジティブ・自由に捉える人が私は心から好きだ。でも最近ネガティブな日本人いっぱいいる。。世代が下るのはさておいても、インターネットの影響だろうか、すごく気持ち悪い。

日本人、何でそうビビってるわけ? 島国だから、昔から小心者であったとは思うけど、ネットの影響か、日本人のキモさが理解できない。あまりに神経質すぎるし、不安に満ちている。

おまけにwikipediaの最後に書いてあるが、シュタイナーの農法は、人間を農場という有機体の一構成要素に過ぎないものとする、ラディカルな「生物圏平等主義」といった思想であるが、この農法がナチスによって東欧の占領地で用いられたことで、「生物の多様性」という言葉の中で「人間の生活様式の多様性」は希薄になり、結局は「人間集団に対する搾取や抑圧」を認めてしまったと指摘している』とこれ誰?よく考えてごらん、シュタイナー農法とナチスとは何の関係もないのだから、日本で作られた日本刀が中国の狂気集団に使われた、という記述となんら論理的に変わりがない。

超笑えるw これ要るの?  これこそ意図的に悪く描いている。

ゾーリンゲンがナイフを作り過ぎました。それが原因でミュンヘンで刺殺事件が多数起きました。ゾーリンゲンの市民は悪い。

これ、アリ? なにこれ? どうなってる、wikipediaの日本人?

思うんだけど、最近、こういう馬鹿な事を書く人が増えて、ネット社会がどうなっているのか、対面で、トコトン論破したい

凄く意味がわからない。こういう人は何の為にwikipediaを作ってるわけ?しかもこういう人がいっぱいいるわけ。どうなっちゃった日本?この論理のすり替えに気が付かない人、ヤバくない? Wikipediaで何人編集しているか知らないけど、とてつもなく低レベルで、吟味もされていないような事を書かないで欲しい。Wikipediaに寄付していたけど、もう止める。間違ってるからw

しかもシュタイナー農業を実践している人はごく普通の人。その生の声、実践の大家(つまり農業研究家)などの現場の声はどこ? 現実的な乖離も甚だしい。お前誰?って感じw ネットのリテラシーを逸脱した人が最近増えてきて、自分の言動が他人に与える影響を考えずに、発言する人が多すぎる。今はそういう異常な人が10%~20%だけ混じっているけど、普通に見える層(つまり60%とか)もこうなりつつある予感がする。

つまりアレだね。戦争している時代の、稚拙なプロパガンダに煽動されていた人達と同じ「集団的な盲目性」が支配しようとしている。なぜ自分で考えないのか。なぜ隣の人と違う自分を表現しようとしないのか。なぜ集団から出られないのか。

おまえら、ドイツに来い

もうね、自分の眼や足で行動しない人間は意味ないんですよ。
wikipediaですべてがわかるなら、お前らにはセンスが欠けていると言いたいんです。ネットでソコソコの事が分かる便利な時代になった今、家のモニターやスマホの前で座って、下らないバカ者がネットに害毒を流している。しかもそれは今は極一部だけど、こういう病気が拡がると予言しておく。

自分が関わらない事をブツブツ言えると思っている人間が多すぎ。人の事も自分が確かめたことならまだしも、噂とか類推で、細かい10%の事をいかにも100%のように言う人が多すぎる。それがしかも気取ってたりする。もうアホかと。

ドイツでどれだけBIO有機野菜が充実してると思っている?
それはフランスにも普及して、アメリカなんかの比じゃない。

日本にどれだけ有機野菜が売っているの?ないよね。ドイツがそれができたのは、シュタイナーの農業の実践者たちが大きく影響している。シュタイナーを支持するインテリ層がドイツを民度を引っ張っているわけ。ドイツの民度は昔から高い。日本の民度は昔から低い。

ドイツの努力は評価すべき。社会にBIOが浸透できる基盤を与えたのは、シュツットガルトあたりの知的基盤とドイツの民度の両方がブレンドした効果であり、それはドイツの実力なの。ドイツは社会貢献、「社会に対する良い事は実行しよう」という意識が強い。そういう育ちの良い面がシンプルにある。ドイツ人の肩を持つわけではないにしても、それは彼らの努力なの。そしてフランスでもかなり広がって来ている。ドイツの恩恵でもある。

特にフランスのワイン業界もデメター・ビオデュナミの影響が大きい。個人的にフランスで一番古いシュタイナー農業家も知ってるし、90年代から多くのワイン醸造家が『シュタイナー農法』に切り替えた。だって美味しいんだからね。

バカはほっといて、書評です。

高橋巌氏は私の人生を変えた人物。ご本人にもサインを頂きました。

私は「高橋節」に騙された人です。でもこの本は、私は高橋巌氏の遺作だと考えています。

これは氏の素晴らしいドイツ思想史です。彼しかこれはできなかった。

そしてこれはシュタイナー哲学入門ではないのです。シュタイナー哲学に入門したい人が読むべき「最初の前提」であり、シュタイナー哲学そのものではない、のです。でも氏の渾身の作ではないでしょうか。というのは生き様・生き方を感じるのです。

シュタイナー入門、というのは日本で、今始まったのです。

皮肉なことですが、高橋巌氏は、その生涯で、最後に頑張れたのではないでしょうか。誰にもできない事をやってのけた。それも日本ではアントロポゾフィーが細々と活動する中で、やっと今になって、こういう本が出ました。お隣の中国では経済活動と同様、多くのシュタイナー学校が建っているようです。日本のアントロ人はどうしていくのでしょうね。

今までの「高橋節」とは違った、生き様が感じられる「シュタイナー入門書」にはドイツ観念論などの重要な歴史がわかりやすく書いてあります。私はさらに、ヤコブ・ベーメが好きですが、シュタイナーを立体的に理解する助けになると思います。

そしてこれが日本人らしい、日本人のためのものだ、と思わざるを得ません。本来は高橋巌氏のような人物が、スイスのアントロポゾフィーで登壇し、しかも国際的に日本を牽引すべきでした。しかしそういう事はなされていません。司祭の小林氏という方などもっと適切な人物がいるのかわかりませんが、ドルナッハという所はそういう国際舞台にはなっていません。

ドイツ語なのか英語なのか、文献を考えればドイツ語で討議すべきでしょうが、ドイツのアントロポゾフィーを完全に通じている人、現在のアントロポゾフィーを担う日本人は居ないのでしょう。哲学に通じる人こそ、それは最も有意義だと思いますが、それは高橋巌氏ではありませんでした。あくまでも日本人のトップであって、国際標準ではないのが少しざんねんに思います。ドルナッハにはまだ浅田豊氏などがいらっしゃる中、アントロポゾフィーの核心に触れることがドイツ語でできる人物が現れる事を願う所です。

これからのアントロポゾフィー

アントロ運動自体も、将来を見据えて行動すべきでしょう。昔、子安美知子氏がドルナッハに2人の留学生を送り届けました。

その現場に居合わせた私は、日本のアントロポゾフィーの親心を見たような気がします。でも無暗に人材を育成すべきでもないし、安易にアントロポゾフィーの門を叩くべきではない、と私は思っています。シュツットガルトのアントロポゾフィーは恐らく元貴族を中心に牽引されています。だからチカラがあるのです。

日本のアントロポゾフィーはモルゲンランドを作ろうとして失敗し、一つにもまとまっていません。それは日本人特有の根性が曲がっているからです。そういう力のない組織は発展できません。

そして、また日本人の多くは、もしかしたら病気のようなものに感染しているのだろうと思います。日本人が駄目になる、といっても重症と軽症の差はあります。

私のアントロポゾフィー

世界観を大きく広げた人間は過去、何例もいました。

シュタイナーや岡田茂吉のような人物です。

ただ、その言葉・・・100%本当かは、怪しいと思います。
99%は正しくて、しかも重要な文化的な示唆をしているのにも関わらず、現代になって1%の部分で批判もされるのでしょう。

だから「信じてはいけない」と思います。「吟味せよ」ということです。これが私の両者に対する結論です。究極的に吟味できるか、ということです。それが文化です。

主人公はその人自身ですから、誰もシュタイナーや茂吉ですら、貴方に命令できたり、道を示したり、ということはできません。

つまり自分のやり方で戦わねばならず、それは慎重に行うべきでしょう。というのは自分がそれを行うのであって、責任は自分で取らなければならないからです。シュタイナーですら間違えることがありうる、岡田茂吉も変なこと言ってる、ということは、彼らを土足で踏み越えなければいけないということです。全然、あてにはできないのです。

最後にシュタイナーの核心的な著書、「いかに超感覚的世界の認識を獲得するか」の疑念を唱えておきます。というのは、聖者のように、もしくはイタコのように、神のように、超感覚的(霊的)な出来事を把握できるというのは「あるのか」ということです。

シュタイナー系の何らかの面接の時に、オーラの色を試験官に問われる事があるそうです。私は客観的に思うに、シュタイナーのあの著作の効果は本当にあるのだろうか、と思ってしまいます。

というのは科学(₌Wissenschaft学問)というものは、100%確実なものだから、客観に基づくものだから、価値があるように思います。「ま、がんばれば2割はできるようになる」とか「人によっては出来る場合がある」という基準があるべきです。

つまりオーラが見える行をして2%の効果がある、のであれば、そう評価されるべきなのですが、全然効果がないのか、それともある程度あるのか、まったく評価できないからです。それは科学的ではないと思います。修験道などの宗教では、そういう「行」が当たり前に行われていると思いますが、人智学はあくまで学問ですから、理性的な態度があってしかるべきでしょう。

ここに私は弱さを感じます。正しい事をしているんだったら、もっと公開してオープンにやればいい、と思いませんか?私は科学は信じません。ドグマがあるからです。しかし実験は大好きです。実験はトリックがない限り、そこに事実があります。それが科学の魅力です。ですから、いくらドイツの観念論が高ぶろうと、実際の意味がなければ時間の無駄ではないでしょうか。

そこにありうべき姿がある。それが正しい道だと思います。

シュタイナーは科学的な方法によって、オカルトの認識道を公開しました。ですが、実態を正確に掴まないと、なんだかアホ臭いのです。その客観性はどういう所に存在しているのか、それが現実的なのか、夢みたいな話なのか、スケール感が問題のような気がしています。

たしかにシュタイナーの言う事も、岡田茂吉の言う事も、ある高揚感を与えますし、含蓄がある。文化もある。先見性もある。ですがスケール感がわからないのです。

人間は今すぐ空を飛べません。彼らの言う事は、より深めないと意味がない。つまり今は意味がないです。どのように現実を見るのかは確かに含蓄が深いのですがそれを超えることがないです。

それを超えられないというのは無力なことではないでしょうか。

私はそれが良くないと思います。無力さを知ることは大切です。
超えられないことを認識し、その方法が無力であることを知り、自分が無力に留まるのか、それとも何か別な事が原因なのか、、人間は超えて行くべきだと思うからこそ、超えられない事に甘んじるべきではないと思います。

それが今の私のアントロポゾフィーなどへの答えです。

もしあなたが仕事Aでトラブった時に、今は解決出来ないにしても、機を伺ってなんとかそれを克服しようとするはずです。そしてそれは仕事では当たり前の行為ですよね。

同じようにアントロポゾフィーや岡田茂吉の思想なども、スケール感や有効性がわからなければ、よりハッキリした観点でとらえることができません。仕事はハッキリするのに、思想だとハッキリしない、というのもおかしい。真面目にやってるんだったら、方法を考えるべきではないでしょうか。

人間の運命なんて他人なんかに比較できない。同じことはアントロポゾフィーなりのツールがどういう意味を持つのか、どういう効果を持つのかは、人次第でしょう。だけど、客観的な見通しというのは立つべきではないでしょうか?

フタを開けた時、中には何も入っていなかった。。。

そんなことは現実的に許されるべきではありません。というのは嘘は嘘であり、思わせぶりというのもやはり駄目だからです。

秘教的(エソテリック)なことを、顕教的(エクソテリック)にやってるんだったら、スケール感、見える化、など、やって当たり前ですよね。そしてそこに問題があるのなら、分析し努力しないと、いつまで経っても無力なままではないでしょうか?

無力のままで本当に良いのでしょうか?そこが何かオカシイ気がするのです。他人が何を考えているのかは本当に自由です。好きに生きればいい。その人の時間です。でも自分は何をそこで考えるのか、どう行動するのか、より鮮明に見ないと、私は満足しなくなったようです。

もっとドライに、ナナメに見ないと、踏み超えるべきものも、しっかりと踏み越えられないと思います。

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