【怒るなかれ】中年がブチ切れる醜態の考察【】

30代後半になって色々と世間を渡り歩くうちに、ドイツまで来てさらに気になっている事がある。それは「キレる中年」問題だ。

キレる中年、ゲスい中年は何なのか

50以上のおっさん、よくキレる、その醜さが嫌だ。

最初の記憶は30歳前半でフェラーリを買った時、売った堺のオッサンが書類をビリビリに破いた。なぜかはさっぱりわからないが、売買に不服だったのか、こちらが失礼だったのか、子供のようにビリビリに破いていた。駄々っ子だった印象がもの凄い。

その人物は社長すなわち個人事業主で事業不明つまりチンピラ。

お山の大将、というのはキレやすいのだろうか。

最近ではテジックスという企業の社長が、物凄い剣幕で怒っていたw こちらは全く動じない。 そもそも怒っている理由が意味のない事で、仕事のトラブルをまわりのスタッフに八つ当たりする、という生産性のない怒り方。

ここでもワンマン社長というのは、こうも意味のない事で怒るのか、というのを見させられた。よく映画で怒ってモノに八つ当たりする人物と比較できる。立派な反面教師というのはなかなか居ないが、この人物は立派な反面教師だった。

それでも野望を抱く中年は山ほどいる

「キレる」のが今日の本題だが、そうでなくても感心しない中年はいっぱいいる。。 自分の野望の為に他人はどうなっても良いと考えるような輩だ。 また政治的な人間も居るし、本音を言わなかったり、まるで妖怪だらけ。

そういう中年に心からなりたくないし、そういう動物的な生き方で何かしらの自分の欲を満たしていると考えられる。

しかし、、自分だって怒りっぽいという事実

これが厄年となり、オイル交換が3週間たってもできないとか、目の前の事がことごとく、上手く行かない時非常にイラっとする。

イタリアに住む前、自分は大人しい性格だった。

しかしその後、西洋化され、意見をどんどん言うタイプになったし、他人にも言って欲しいというタイプになった。

日本人からすると考えられない位、言う。日本でもアケスケな人が居ると思うけど、日本人は気持ち悪い人が多く、自分の気持ちを言わない。アケスケでも素直でないと、やはり価値がない。

ともあれ「思い通りには行かないこと」が人を怒らす大きな要因であるのは確かだろう。大厄になって、かなりそういう事に巻き込まれてしまった。

だが思い通りに行かないことにだって、怒るべきではない

怒るべきではない、という鉄則。

よくわからないが、その年になって怒るというのは間違っているように思う。中年がキレてるのは明らかにおかしい。

社会的に重要で、模範的であり、完成に近い存在なのに、怒るというのはそれまでの軌道がオカシイからではないか、と思えるのである。良い40代が送れなかった。良い30代が送れなかった。そういうのが、怒る中年に現れているのではなかろうか。

まず自分に怒る、というのもあるだろう。しかしそれもNG。

他人に怒るにしても、これのほうが繊細な問題ではなかろうか。
他人の怒るというのは、そもそも異常事態であるように思う。

時間がない、等のストレス

時間がないというイライラからくるストレスも多いように思う。

これは改善すべきだろう。自己管理の問題でもあるが、仕方ない時もある。だが時間がないというのは、怒る前段階なので、消すべき課題ではないだろうか。時間がないというのは、物理的なキャパシティーの問題であるのではなかろうか。ただいつも時間がない人、というのは何だか疑わしい。

怒らずに熟慮する方法

最近になって、トラブルに遭っても怒りたくないので、先々に熟慮することで「怒る事を回避できないか」を考えている。

トラブルはそもそも考える事を要求し、トラブルが起こらないと考えない、という事もありうる。であっても、まずはトラブルでは様子を見るだろう。その時に、「怒る」という選択肢をまずは外すべきではないだろうか。

つまり怒ったところで、何の役にも立たない。まずそれを認識することが問題なのではなかろうか。人の性格は年月で変わると言われるが、怒らない時期の自分というのは、そういう事を意識していたわけではない。つまり怒らない人は、性質上怒らないだけであって、その認識があるかないかは別の話になる。

まず怒りというのは感情であるから、感情をどう仕向けるか、という仕分けの話になると思う。仕向けがわからないので怒ったりすることになる。感情というのは「現在」に存在している。しかし「未来」にその感情や問題が無くなれば、怒るとか色々なものの存在理由がなくなる。

結果論的に考える、というのは岡田茂吉の言葉だが、理性というのは永続した出来事に通用するものであり、そっちのほうが未来への信頼性は高い。

いつも怒る人は「未来」を気にしているのではなかろうか?
感情ベースの見方にとって、今が大事なのだから、未来も含めて、怒る人は不安や不満に満ちていないのだろうか?

しかし未来は誰にもわからない。例え、今の私のように大厄に苛まれ、災いが多くても、「だから何だというのだ?」災いで死んだとしても、それはある意味仕方ないのでは?

災いが次から次へ来たとしても、最低限注意しようとしまいと、災いそのものは空から降って来る生卵のようなもので、鉄アレイとかの場合はあるが、だから何?ということではないか?

空から鉄アレイが降れば、人は死んで当然。同じように事故だろうと何だろうと、災いそのものはゲームだよね。それよりもゲームが起こっている意味に興味がある。

大厄や災い

若い時のトラブルと中年のトラブルの感じ方は違うと思う。

例えそれが同じ「災いメーカー」が原因だったとしても。そして中年のほうがピュアに「災いメーカー」を感じる事ができるのではないか?だから怒りやすくなる。気持ちはわかる。でも怒ってはいけない。若い時は単に、ヴェールがあってわからなかった。

つまりどんな不幸も主観次第であり、気にしなくて良い。
これは楽観主義ではない。ヴェールが外れたと言っても、結果としては同じ。若い頃よりも運命に対する感覚が発達した分、災いに対する嫌悪が増すかもしれないが、そもそも若い頃と中年の不幸は質的に変わらない。

あと怒る人がまだ忘れている事がある。

そもそも運命の作られ方を知らない

トラブルがあったとして、すぐに怒るというのは論理的ではない。原因は自分にもある。それは通常の意味よりも深い。

無意識・影意識などと呼んでも構わないが、そういうものを含めて、原因は自分にもある。つまりトラブルは自分が作っている。

シュタイナーが言う、もう一人の自分が屋根からレンガを落として、自分の頭に当てる、という話があるが、この「大厄」を経験していると、本当のように思える節がある。

つまり災いの原因は他人や世界ではない。自分の中にも潜んでいる。つまり病人は自分であり、災いとは病気のようなものだ、と私は言える気がしている。

そう考える時、トラブルは元々そういう性質があるので、怒っていては動物と同じレベルになる。自分という地獄から災いが出て来る。どちらにせよ理性で対応しなければならないものの、そういう仕組みを知らないと、怒る事にも意味がない。

このタイトルと書いたのも、もしかして、怒る時のリアクションの意味のなさが気に入らないのかもしれない。モノに当たる・人に当たる、この意味のなさ、無意味さは、意味が排除された残骸であり、だからこそ意味がない、という認識である。

運命に対し、意味を欠如した怒り

自己認識というのは自分の運命がどこから来るのか、そういう知恵を知っていることだと思う。中年になって怒りに苛まれる場合、無意味さに襲われている。

聖アントニウスが試された妖怪ども。しかしそれは己の中に潜んでいるのではないか?なぜ、自分の中の化け物が自分を苦しめるのか?よく考えなければならない気がする。それは怒るよりもはるかに創造的だ。

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