哲学と自由

文明論と哲学の未来。

我々にとって「我々の文明とは何か?」という定義、それは重要である。サルから人間が進化したという学説を鵜呑みにする以前に、我々は人として数千年の偉大なる歴史を歩んできた。

中国5千年の歴史にせよ、ギリシア・エジプトの数千年の歴史にせよ、その舞台には哲学者や思想家が存在している。そして思想とは記録に残る個人に帰結するだけのものではなく、インド哲学やミトラ教のように文明そのものが生み出した熱い息吹があった。

我々の文明とは何か

過去に文明があり、現在の文明がある。それは並列に扱われるものであるのだろうか。貴方、父、祖父、そして具体的な祖先たちがいるように、我々の文明は今、ここに現存し、過去の文明は過ぎ去った。過去がそうだったように、現在の文明もまた前進しようとし、新しい成果を生み出すだろう。だが新しい成果はいつも過去にとっては未知で、多くの人にとっては疑わしいだろう。

哲学は頭脳であり、理性であり、予測であり、預言者である。
それもまた進化しなければならず、教授のつまらない講義の中に哲学があるわけではない。それは生きるための行動指標であり、道具でなければならない。

そして我々の文明としての特徴は「自由」だ、と哲学は歌う。

サルから人間ができたという学説が、人間そのものを馬鹿にしていると感じる以上に、我々はつい50年前まで世界戦争をし、野蛮なニュースに先導され、上から下まで踊らされてきた事実を、痛々しく感じ、また嘲笑しなければならないだろう。

また一方、技術の発達でより多くの自由時間が得られるようになっても、未だに自由が制限されているように感じるのもまた我々の社会が抱える構造的欠陥であって、この状況はまさにネズミが自由を求めて車輪の中で走っているとさえ、思われるものである。

実際、文明の発達によって技術的に今後も多くの自由が生み出される。そして哲学もまた自由を提出するのも、偶然のことではない。そしてまず哲学が賞賛するのは、自由への感謝である。

自由がある事を意識しなければ、人間が自由であることを意識しなければ、決して良いものは生まれない。そして自由であることに意識的でなければ、自由であることに逆襲されるだろう。

ゆえに自由とは試練であり、冒険であり、自己表明であり、決断や判断といった、人生で最も重要な部類のベースとなるものである。我々の文明において、自由を享受するという意味は、能動的に自由を使用するか、受動的に自由の恩恵を受けるか、2つに分かれるだろう。つまり自由を「意識する」という行為が、両者を分かつのである。

哲学が時代の自由を賞賛し、また警告するのである。

QR Code