古代の科学、民衆の科学【祈りや断食や塩断ち・巡礼の意味】

現在の劣った脳みそ、愚鈍な人は気がつかない科学を書こう。

最低でも『念』が実在するものと考えないと非科学に映るが。

おそらく科学と学問は「念は実在するか」というテーマで、あと何十年もサルのように低レベルな段階に留まるに違いない。

祈りの意味、断食や塩断ち・巡礼

祈るという意味も、現実的な行為として有効なのがわかる。

『念』を認めた段階から始めればいい。

この時、問題は、どこで祈るか。神社・教会・秘跡などがある。
ちなみに仏教はこの点で諸宗教に劣る。比較的仏教は新しいため、古代のオカルト知識がないから、場所の観念がない。

そして場所というキーワードを除けば『念の増幅』問題となる。

呪いの経験からわかること。①念の増幅

昨年・今年までの個人的呪いの経験からわかることは、決して他人に生命的な嫌悪を与えてはならないことがわかる。

生命的とは、生存レベルの欲求を停止させること。

睡眠・食欲・性欲など。これらの生存に基づいた「念」は強い。
そういうレベルの強い念は、阻害してはならない。逆にこれを利用することもできる。

すぐに話が逸れるが、黒魔術は生き物を切り刻むが、これも『念』を利用している。「生存」に関して「具体的痛み」などは、非常に強い念を産む。黒魔術はそういう生き物と念の関係を把握している。シュタイナーも少し警告していた。

前提

「欲すること」
何かが欲しい、何かを獲得したい、何かになりたい、
人生では色々なケースあると思うが、たしかに欲望そのものがクソのように思えることもある。

だから流されるままに生きるというのは、心地のよい、肯定的なものを含んでいるし、無為自然、天地の法則に順応し、好感が持てるのである。確かにそれは正しい。

しかし人生にはそうでない側面も存在しているのではないか、という疑念もまた存在する。それは欲望であり、意図である。

最初から言うと、欲望とは自然にも即しているということ。

食欲はこの世界では、無くてはならないものであり、
性愛はこの人生では、愛そのものを促進している。

つまりある意味で「ピュア」なのだ。それは歓喜である。

欲望そのものに従うこと、それは歓喜だ。
まずはこれを肯定しなければならない。

で、面倒なのは、欲望を手段として、我々は何かを獲得する、ということ。性欲を通して夫婦愛を長期で獲得するのと同じように、欲望を通して人生で何かを獲得するということがある。

つまり欲望そのものよりも、大事なものがある、ということ。

この段階的に引き上げられていく”進化”に、欲望は従っている。

命の意味

少なからず理解すべきなのは、命は与えられている、という事。

命は欲望を必要としている。命という物質化は、逆に、食料を止められると念が増幅する、という原理から考えて、非常に偉大で、命は与えられていると考えざるを得ないところがある。

結果から、そう類推できるということ。祈るという事は、それを逆に利用したり、拡張する行為なのではないか、と思える。

つまり、命を持つものは、結果的に祈るという行為を本能的に理解しうる、ということ。命を制限することと念の関係は、何かしらのエネルギー法則的なもので、命の制限は念の増幅に利用できるということ。

そしてある事を望むという事は善でも悪でもない。欲望を通して、さらに先を望むということ。つまり欲望は手段に過ぎない。

命の制限

宗教がこれを利用してきた。キリスト教のアドベント。

断食などがこれに入る。断食は念や感情生活に効果がある。

塩断ち等の民間信仰もまた同様。

何かを不足させて、命を制限させる。すると違うエネルギーを得ることを知っているのだろう。

そして巡礼は大きなイベント。無心に何かを祈って集中する。

物質的ではない事でも念は増幅できるが、物質の方が苦痛が感じられるので、簡単に増幅できるのではなかろうか。

悪魔との契約・神との契約

ついでなので契約についても書いておく。

まず契約というと、「どろろ」とか「ファウスト」など、悪魔と契約するという話が多いが、どこからが悪魔でどこからが神なのか、そもそも曖昧であり、ここでは存在としてだけ考える。

で、そのまえに上で述べたように、命を制限する方向ではなく、ポジティブに契約する方向もあるはずであり、そちらのほうが客観的であり、社会的であり、ネガティブはインドのヨーガ宗教のようにわかりやすいが、現実的な意味で言うと無意味に近い。

「犠牲を伴って」

犠牲の考え方はわかりやすい。感情的であり、しかしマイナス思考だ。失う物があれば、得るものは大きいのだが、旧世界の考え方だ、ということもできるのではなかろうか。

犠牲を厭わないのは立派な事だが、破壊的にではなく建設的に捉えるのが、現実の範囲内では正しいように思う。

『自分の全てを捧げる』これが宗教の本質である。高貴だ。

自分の全てを犠牲にする、ということは、非常に非現実的だ。24時間、何から何まで、ということは考えにくい。

むしろ犠牲にできないことがあるからこそ、犠牲は有価値だ。

痛みそのものには意味がない

うーん、個人的犠牲・苦痛が無意味かというと、そうではない。たしかに意味がありすぎるし、しかし苦痛や犠牲はあくまでも手段であるのなら、手段がメインになることはありえないのでは?

だが「痛み」「犠牲」は念を増幅させる。その意味で科学としての痛み、忘れる防止アラームとしての犠牲として解釈するのも一つの手だが、「痛み」≒「負荷」と考えるとよりポジティブになる。トレーニングとしての負荷は、人生としての負荷。そう考えると、『重荷を背負いたい』というマゾ的な宗教心だ。

最終的に「感謝」がゴールではないか

欲することに対し、ここまで検討した結果、欲すること≒手に入れることが持続的な感謝に繋がり、より大きな目標に至るための土台(手段)になり、それを忘れないための「誓いの儀式」。

ちょうどタトゥーを入れる心境に近いのではないかとも思う。

体に掘るタトゥーは、そう簡単には消せない。他人に見せるというよりも自分に誓うためにタトゥーを入れるケースでは、目標と誓いが込められている。

人間が何かを書き込むように、生存に対して争おうとすること、子孫を残したり、何かを超越しようとしたり、上位のものを求める気持ちが、人間にはある。

得るものに対し、「おのれ」の無価値さを認め、そのギャップを埋めようとする。それが『犠牲』であり『神への供物』である。

自分には値しないという気持ちは劣等感かもしれないし、何かを欲することも克服要求だが、欲求が人生から無くなれば、人生の意味は少なくなるだろう。挑戦というのもまた欲求のひとつであり、欲求は意味がないとは言えないだろう。

スリルを求める

最後に結論らしい事は言えないかもしれないが、「スリル」これは生存への喜びであるようにも思われる。恐怖が人生のファクターに結びついているとは、現代ではあまり考え難いが、「あんしん」とか「保険」が優遇されて、麻痺しているかもしれない。

スリルがある人生、命の躍動がある人生、自分が生きている事を実感できる人生、つまり危険と隣りあっている人生こそ、何かしら『極上の要素を持っている』とも考えられる。

何かを捨て、次を目指す。

犠牲を課すのではなく、全部を捨てる、という生き方も、あっぱれだと言えよう。答えは、その人間の生き方で決まって来る。

覚悟ができていれば、いるほどいい。

古い自分を捨て去り、違うものになる。人生や世界は迷宮のようで、行き着く所もあるように見える。だが、人生と世界は無限に、汲み尽せぬ、価値がある。汲みつくせぬもの、それを求めることは至上の喜びではなかろうか。

QR Code