信頼とはどこから来るのか

子供から大人、生徒から教師、など、「信頼」について考える。

そもそもの話、自然な信頼を裏切るべきではないと思うのだ。

しかしこの「信頼」というのが、いとも簡単に裏切られるのが、この世の中である。では『不要な信頼』とはあるのだろうか?

信頼とは何か

信頼とはどこまでが自然で、どこからが不要になるのだろうか。子供は自然に大人を信頼するものである。そして成長し社会への信頼に繋がっていく。

しかし社会には「約束」が存在している。約束を破ると、これは別次元の話で、批判の的になり、犯罪につながっていくが、信頼はそれとは異なるように思う。まず「対等の立場」か「恩恵を受けるべき立場」が大きな要因であるように思う。

子供が大人に信頼を寄せるのは当たり前のことである。だが子供の信頼とはどこから来るのだろうということだ。子供が発する信頼は眩しい。そこに光がある。教示されるものを自然に求めている。理由なく光が存在しているわけではない。それが素晴らしいことだと思う。

さて青年が持つ信頼、大人が持つ信頼、年齢などに応じて様相は異なって来るが、そこにも光が存在している。そう信頼には命が宿っている。生まれ出る新しいものが宿っているのだ。

もしかして「成長」があるのだろうと思う。現世で有効な成長を遂げようと、信頼が輝き、感覚を開こうとしているのだ。

信頼と裏切り

この場合、「約束」に対する裏切りではなく、信頼に対する裏切りという意味で考える。信頼とは成長を求める心の機能である。

で、普通の大人は「約束」だけを守ろうとする。義務だけを気にかけて、信頼に対する責任というものを理解していない。言った、言ってない、という話は低レベルであり、そういう約束以外の事に人間的な責任を取れない「非人道者」のように思う。信頼が果たされるところでは、低レベルな約束など問題にならない。

つまり「人格」が信頼に相応する概念である。約束は法律のように低レベルな次元に相応している。

「信頼」に注意しなくてはならないと思う。(社会人が他の人に何かを信頼するケースは、稀ではある。例えば職場など常識は当たり前の信頼の一つであるが、今回の信頼とは異なる。むしろ「信用」に近い。文字通り「頼りにされる」のが信頼であるが、残念ながら、ほとんど頼りになる「ヒエラルキーが上の者」は自分は見たことがない。個々の仕事のケースでは、そういうものはあるし、同僚に頼られるというのはそういう人だが、元々信頼というのは、「成長」を含んでいるものであり、無能なものが有能なものを頼るのとは、大きく異なる。

子供が大人に高い物を取ってもらうのは、信頼ではない。女子が男性に電球を変えてもらうのは、信頼ではない。)

あくまで環境に信頼を寄せる、ということは、指導を守って身につけることであり、成長を前提にしていることなのだ。

基本的には教育や世界観の育成の話のだろうと思う。

そして会社のような組織にも信頼というものはある。これは先輩を信頼するのと同程度の意味でもある。そのように社会の規範を持続する意志があるところに、信頼はありうる。もちろんブラック企業には信頼どころか、グレーゾーンが幾つも出て来るw

企業の場合は、従業員を見れば信頼があるかすぐわかるだろう。そして幹部を見て人を使い捨てる傾向があれば、できるだけその企業と縁を切るべきだと思う。

信頼はこの世に無数に育つが、それに応える人格というのが、この世にどの位あるのだろうか。

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