呪いと厄年の考察(⑦:厄年の総括+大殺界)

厄年でブログの更新が止まると「ドイツで本当に死んだ?」と思われるかも知れないし、そういう可能性も大いにあるから怖い。

しかし何とか2018年を迎える事ができました。戌年。
今年までの3年間で、世界は大きく変わると予想しています。
昨年のトランプ氏の就任に加え、今年は驚く変化があるはず。

実は『大殺界』だったのを知らなかった

さて、厄年シリーズも7回目ですが、実は自分は『大殺界』だったようです。つまり「厄年+大殺界」だったので、強烈な不幸を見舞われたということでしょう。でも大殺界と言っても、時期がやはり1年ズレている。厄年も1年位ズレているんです。私は『未熟児』で産まれているので、本来の生年月日は3カ月かそこらはズレているのでしょう。ちなみに身内に厄年のことをボヤいたら、大殺界であることも教えてくれました。今後運気は上昇するようですが、そう聞いてもすぐには信じられませんでしたね。

厄年の恩恵

さて、厄年シリーズも最後にしたいので、年頭でもありますし、所感を書いておきましょう。それは厄年の恩恵です。

恐らく恩恵を書く気になったのは、運気も上昇に向かっている気配を自分が感じているからでしょう。ま、油断はしていません。

相手がくれる愛よりも、より多くの愛を返す

厄年や大殺界って辛い事が多いですよね。
明らかに他人の標準よりも、不幸です。でも結果的に相手よりも「愛」で上回っていれば、それは「勝ち」ということではないでしょうか。それは相手を恨まないということです。

世間の人は何を考えているかわかりません。しかし相手以上の真の愛を持っていれば、相手に勝っていることになります。自分を卑下せず、世間を恨まず、愛で上回っていれば怖いことはありません。何せ人間の価値というのは「愛」にあるのですから。

ただ表面的に「愛」といっても、具体的なことではありません。自分の問題です。相手のことをプラスに考えている、というシンプルな思想に過ぎない。陰でつまり心の中で相手をけなしたり、実際に陰口を叩いたりしない。むしろ自分が不幸にも関わらず、より以上に相手の事を想う、ということです。

これがまず、厄年で学んだことです。
これ以上にシンプルな答えはないのではないでしょうか。

障害は耐えなければならない

これは私は嫌いな考えです。

『苦労は買ってでもせよ』『耐え忍べ』など日本人が好きそうなこういう言葉って凄く「臭い」んです。臭い人間が言うからそうなってしまう。馬鹿の一つ覚えとか無根拠に思えます。

でもこれはロジックの問題であって、理屈が判れば良いのです。
こういう臭い言葉は無根拠に言うから、駄目なんです。人を選ぶし、理路整然に説明しなければ人は納得しないのです。

私の場合は、たまたまヨーロッパに居たので納得することができました。それは一番わかりやすく言うと、「気候」です。

熱いとか寒い、これが根本です。なぜ熱いとか寒いが問題なのでしょうか。これは人間が必要としている苦労の一つだからです。

年中、過ごしやすい気候、例えばハワイや米西南海岸のような気候だったら、どんなに世界中がハッピーなのでしょうか。暖房も冷房も不要で、秋や春の過ごしやすい気候だったら、素敵なことではないでしょうか。

でも実はこれは人間が耐え忍ばなければならない、基本的なことです。耐性を向上させるという意味もあるでしょうけど、そもそも人間の環境は昔から「四大」つまり火・水・風・土と闘ってきました。この四大というのは「霊」です。人間は地球に住み、霊的な環境に生きています。これは環境を克服せよ、という命題なのです。冷暖房も環境を克服する技術であり、立派なものです。技術でも精神でも、とにかく人間は地球というものを克服しなければならない。そして今人間が最も克服しようとしているのは、『物質』です。物質生活は加速度的に快適へと向かっています。

聖書でいうと、人間は地球の王となるべき、尊い存在です。それを凄く長い歴史で体現している途中なのです。だからあらゆる技術や精神力を磨くべきなのでしょう。とにかく人間は基本的な暑さや寒さといった環境を通して、自己を認識していくのです。暑さ寒さは「抵抗」であり、言ってみれば「不幸」です。ですがそれを通して、人間は何かを得ます。「勤勉」という言葉が適切かどうかはわかりませんが、環境への対応は当然苦労なのですが、そういう小さいことから、人間は大きなことを学ぶのです。

ただこれは実感や哲学が伴なわなければ「臭気」がプンプンするので、馬鹿な人が言うと、言葉の偉大さが失われます。

不幸や苦労というのは、単にそれだけでは終わりません。
「ストーリー」になるのです。大晦日にイタリア系スイス人に「Maria, ihm schmeckt’s nicht!」という映画を見せてもらいましたが、イタリア移民がドイツで苦労した歴史が出てきます。実話であり、どの家族にも起こったストーリーを、その子供達が映画で見るのです。父親や母親が苦労してきたストーリーは、他に替えがたいものであり、尊敬の念が沸き起こります。

今不幸を通して起こることは、明日すばらしいチカラを魔法のように生むのです。それがすばらしいことです。聖書にはそのとおりに書いてあります。不幸は目に見ぬ未来へ、祝福を与えます。

目に見えるものが限界を超えられない時、不幸は限界を超えて未来を生み出します。病気もそうであり、あらゆる事は本来そうなっているのです。同じ人生というタイムスケール上でも、不幸は人に叡智を生み出すことに見て、明らかです。

だから不幸こそ、苦労こそ、抵抗こそ、チカラの発生源です。
まだ見えないチカラをこの地球に与えるのです。

魂の試練「Die Prüfung der Seele」

厄や大殺界の最中にひとつだけ気になる「封印」がありました。
(R.Steinerの考案した印です。「神秘劇」の第二幕のそれです)

厄年の最中にこれが試練だと思うのは、簡単です。でも度を超えていたり、脈絡が不明であると、そういう「単純な見解」が馬鹿バカしく思えるものです。だって主観であり根拠がないですから。馬鹿でも「これは試練だ」なんて気取ってみるものです。

運命など分析はできません。霊的な背景も含め、人間にはわからないようになっているのが運命です。ですがわからないという前提でも、思考というのはあるべきで、根拠のないことはできるだけ避け、熟慮すべきだと思います。しかし今回気になったのは、この五芒星の印であり、「魂の試練」だそうです。

このマーク、私のこの厄年の最後の時期に、とても大きな印象を与えています。耐えるという事については、この印を人は背中に刻むべきだと思います。五芒星は智恵を表しています。そう感じるのです。恐らく、個人的には、まわりの模様は環境を表していると思います。

厄年も単なる不幸の形態に過ぎません。だから騒ぎ立てる程の事でもないのですが、問題は量や質であり、キャパの問題なのですが、「魂の試練」と呼ぶほどのものがあっても不思議ではないでしょう。私はR.Steinerの神秘劇があんまり好きじゃない。言ってみれば、そんな不幸に思えないし、苦痛にも思えない。ドラマというのはえぐるように心を掴むものです。そういう意味ではシェイクスピアとか他の劇のほうが、リアリティがありますよね。

昔からの名作に、不幸や苦労を題材としたものがありますが、今の私にはそういうもののほうが骨身に堪えます。

Was soll das sein? (どういう意味?)

不幸の最中も、そして不幸が去りつつある今も、別の視点で同じ言葉を問いかけています。いつもです。厄年に訪れる不幸には多くのいわれのない苦労が伴ないますが、意味が薄いものです。単純な不幸と呼ぶべきでしょうか。でも不幸が去る時は今後の方向性の観点から「これがどう繋がっていくのか」と問いかける余裕が出てきます。

次々と訪れる単純な不幸が薄くなり、意味のある出来事が起こりつつあります。だから審神が必要なのです。

多くを考えることを止め、推測を減らしても良いようになっているように思います。ですがその中でも未来を審神することは必要に思います。

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