呪いと厄年の考察(⑤:ジャッキが落ちる大惨事『大凶』)

前回、右肩に女性に引っかかれたようなアザが出た直後、
またもや『凶』を感じる出来事が起こった。
今回は運命の尋常ならざる悪意を感じる。

慎重さが『大凶』を回避

車のジャッキは皆さん買った事があるだろうか。
ジャッキは日曜整備士にとっては必需品であり、車の下に潜って作業するのは「死と隣合わせ」ということをよくご存じだろう。

今回、幸運だったのは、事前に別件で新品ジャッキを多数買い増し、別の新品ジャッキを豊富に持っていたためである。ジャッキを「多数」買い増しする事など普通はないのだが、私用プロジェクトで注文し用意していた。「多数」だ。

不良品とはわからなかった自分のジャッキ

自分は年を重ねたせいか、自動車整備ならずかなり慎重に事を
すすめるタイプになっており、気が乗らなければ行動しない。

実はジャッキが欲しくていつも検討していた。近所のHCに
22Euroという最安のガレージジャッキを購入したばかり。

なぜ購入したというと、これまた「凶」を感じることだが、
手持ちのパンダ式ジャッキ2台が「整備中にズレる」ことが判り、
買わざるを得なかった背景がある。これも危ないところだ。

だが一か月前に買ったジャッキで車を上げて、色々していた所、
『何故かおかしい』。自分は保険というのを2つ掛けるタイプで、1個のジャッキを信用しない。2個のジャッキとタイヤを挟むなりし、2.5個分の保険を掛けないと恐くて仕方がない。

「注意深さ」が功を奏す

たまたま別の多数の新品ジャッキ3台を使って慎重に整備を終了。
「おかしい」ガレージジャッキはどうも調整弁が少量油漏れをしている?とりあえず使わずに、放置し、翌日になった。

翌日、調べるとオイル劣化やパッキン割れでない事が推測され、さらに翌々日、ジャッキから多量のオイルがだだ漏れ、使い物にならないほど駄目になっている。購入後1カ月だ。

危なかったと思う。代わりの新しいジャッキ(多数)がなければ、そのまま使っていたことも十分考えられる。ガレージジャッキが下がってきたら、それは死を意味する。

アニメで言うと、新品の天使団(ジャッキ)が救ってくれた形だ。

レシートもなく、返品も億劫すぎる

実は22ユーロで買った日に、レシートは何故か捨てた。
「22ユーロごときで文句を言うまい」とでも考えたのだろう;

で、普通はメーカーに送るのだろうが、当然「重い」よね?
これ、発送するの?自費で?メーカー輸入元の電話番号も不明。
中国製の22ユーロジャッキのカスタマーサービスなんて輸入元はまともに対応するのだろうか。やりとりがすでにメンドクサイ。
もう、嫌になった。というかこんなの最近は当たり前で、気力もない。

自宅のネットが2カ月も開通しておらず、それにも気力がない。
それと同じで、買ったHCに文句を言いたかったが、レシートがない。。怒りはあるが、気力なし。でもどうも常識外のこと。

別件で出かけるついでに、とりあえず壊れたジャッキを積み込んだ。出先で予定が少し代わり、HCに寄っても良い気分になった。

予想を裏切る神対応

断られても文句を言ってやろうと、そういう態度でのぞむ。

HCに行って、別件を済ませる代わりに、最初にカスタマーサービスにジャッキを持って行った。だってジャッキが下がって死んでもおかしくないんだからさ。普通の商品じゃないしね。命関連。

で、事情を説明し、これは本当なのだが、買った時から箱の中の取説がオイルまみれだったことも説明。(今考えると、買った時に気づけば良かったが、22ユーロだしこんなもんだろうと1回・2回は使っていた。それで問題はなかった。)そうするとおねーちゃんが、レシートが無かったが、あったことにしてくれて、別の部署に連絡。その先の部署が『交換』を了承。事なきを得た。いや、事なくて本当に良かったわ。

「大厄」が『凶』を感じさせる

この件で思ったのは、厄とか不幸とか、ブツブツ言っていたけど、『凶』を感じる。危うく「死ぬケース」。それも日曜整備で誰にも気がつかれる事なく、苦しんで死ぬ、さみしい死に方。

何時間も体の一部が潰されて、叫んでも誰も気がつかず、死ぬ。

寒い冬に、一人で、どうでも良い事で死ぬほど、つまらないことはない。とにかく『凶』を感じさせるに自分には十分だった。

「厄に怒る」「対応する」という前回までの姿勢とは異なり、『凶』に果たしてどう対応できるのだろうか。

そういうレベルにないことがわかる。もう、感情ではない。

一応言っておくが、私は40まではいつも神社で『大吉』。
おそらく8割は大吉や小吉だ。当たり前だが通常の運も、他人には劣らないと考えていた。最強ではないが、優等生レベルだ。

だがそういう自信が今は「皆無」。どうやったら消耗しないか、日々がサバイバル過ぎる。特に昨年からは仕事上で出会う人間にかなり引っ張り回され、対人関係でも「交通事故」的な大事故に遭っている。この件なども書きたいし、常識はずれ過ぎるのだが、プライベート過ぎて書けない。他人からはここ20年くらいで、一番ひどい状況だねと言われた。何故こんなにひどいか、それはともかく、どんどん諦めるしかないのだ。それはわかっている。でもこの『大凶』の感覚は違う。

レベルの違う 重いボーリング球 のような『凶』が出てきた。

一体、何をここから学べ、と?

私の状況では宗教に入りたくなる

私は神を信じている。しかし不幸だ。神を信じているのに、さらに宗教にどうやって入る?為す術がない。岡田茂吉という宗教家が言ったが、人間は病気が何個も同時に来ると、限界を超える、というような事を言っていた。私は最近はそれについて思うが、トラブルが何個も並列に来ると、完全に諦めるようになる。

この間、グリューネワルト作「キリストの昇天」(ウンターリンデン美術館@Colmar)を見に行ったが、描かれていた「聖アントニウス」は妖怪どもに囲まれていた。神に仕える「聖者」が妖怪に何故苦しめられるわけ??? 神の庇護にある聖者が、何故妖怪に苦しめられるか、理解に苦しむのだ。その教会はヨーロッパの多くの病人を抱え、頑張ってきた偉大な教会である。

「神を信じている」というのは嘘

神を信じていると思い込んでいる。世の説教者もそうだと思うが、宗教者というのは、全然駄目なヤツも多い。言動と行為が矛盾する「偽善」、精神的など感じているのに実は「物質的」、私も多分に漏れず「自分を精神的・善的と、思っていただけ」で、そう思いたいだけなのだ。だからシュタイナーだとかを取り上げる。アイドル(偶像)を信じ、それで何かを取引している。「そういう自分が好き」というヤツだろう。間違いはない。

ジョジョの第5部、ブラチャティの『凶』

このブログでアニメを取り上げるつもりはないのだが、今回は書かざるを得ないだろう。それは「ジョジョ」という漫画、第5部のラストエピソードに、運命の呪いの『凶』球というのが登場するのだが、この呪いの『凶』球が最も自分の今のイメージとマッチする。

なぜ荒木飛呂彦は、このエピソードを取り上げたのだろうか。
それ以外は最上のストーリーなのに「何故付け足す意味」があるのだろう?

これは簡単な話ではなく、自分の現実の話でもある。涙を流すことは無いが、「涙はもう枯れ果てた」と呼べるような精神状態を経験してきた。大げさではあるが、確かに客観的にもそうだし、そう言っても許されるようにも思う。そうでなければ「マッチ売りの少女」の話が真実だと思わないだろう。現実に価値がなくなれば、空想も厭わなくなる。そしてそれもまた真実なのだ。

前回から①~⑤の話を整理すると、この『凶』はドス黒い悪意のカタマリであって、しかし「幸運」で回避する事ができる。

今回の新品ジャッキの買い増しも運命的な幸運であり、『凶』が起こる最中でも「幸運」は全然ある。今日でも非常に幸運で有益なことがあった。だから厄と運は別の要素とも言えそうなのだ。

 

ブラチャティはどうしたのか

ブラチャッティがどうしたのか、はっきり思い出せない。データを探してみたが、ブルーレイドライブが本棚から落ちて2つに割れた。中身まで壊れてなかったが、データも4部しかなかった。

運命は変わらない。大理石から掘り出されるのは、自分だ。

4大霊である地・水・空気・火も、この順番で重い。重いということは縛り付けられていると考えて良いだろう。

運命に縛り付けられていると理解してみる

ただし、起こる事なんて先が見えないだけで、縛り付けられているのに変わりがないのならば、避けられない部分はあるのだ。

例えば避けられない未来が予知できても、それが苦痛だったら、知らなくても良いのではないか? つまり不可避な運命に怯える必要はない。実際のところ、なるようになればいい。

人間は必ず死ぬ。これは決まりきった話。どう死ぬか、いや、むしろどう生きるか。荒木飛呂彦はこの「ブラチャッティは元々死ぬ運命だった」と設定し、救済しているということで間違いがなかろう。でもエピローグと主人公の「レクイエム」(=つまり
人生とは眠れる奴隷であること)には関連がある。むしろそちらのほうが、キャラクターの救済よりも有意味だ。

この場合、凶石は「安楽死」を意味しているのであり、車の下に押しつぶされるのであれば私は安楽死のほうが良い。健康体であるのに、死ななければならない。そういう矛盾する場合に「凶石」は苦痛を与えるのではないのか。いや、むしろ凶石はキリストであり、生きる苦痛よりも死ぬほうが楽だ、ということを教えているのではないか?それは個人の人生によって異なる。

わかりやすく言うと、「俺、2・3日死んでるわ」と言って、嫌な事を回避するようなものである。また復活すればいい。つまり生きる事のほうが辛いのである。死んだ方が楽かもねということ。

死は霊的な誕生を表している

成仏というのは、仏になる、神になる、ことであり、霊界から見て誕生することになる。グリューネワルト作「キリストの復活」がそれでなくて何なのだろうか?死は忌まわしきものだが、逆でもある。生死にこだわることはここではやめる。

キリストも散々な目に遭い、死んだ。贖罪し落下したのか。
あれが不幸でなくて何なのだろうか。

「われわれはみんな『運命の奴隷』なんだよ(スコリッピ)

眠れる奴隷であるのはある意味わかる。

でも「奴隷」というのがイマイチどうかと思う。例えそうであっても認めたくない。反抗し復讐するのが、不自然不健康?

次回は復讐について考えてみる。人間だからさ。

猿が大仏の掌の上で踊るとしても、あまりにもされるがままでは面白くない。まだ大事なものは沢山持っている。相手に意図があるのならば、「その意志をくじく」。そして有意味を掴まねばならない。

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