呪いと厄年の考察(③:ドス黒い生き物)

呪いシリーズ3回目だ。が、まず言う事がある。
次回4回目には面白いものをお見せしよう。実は今朝、「右肩に女の人の手の引っ搔き傷が付いているんじゃないの?」と言われ確認したところ、それっぽいw 特定の人に呪われているのか?
次回をお楽しみに!? うーん;

呪う行為の代償

何かについて呪う時、心の中にドス黒いものを感じる。
私はこれを初めて経験した。単なる怒りや恨みごときのレベルではそうではない。

呪いのレベルにもよると思うが、そのぼやけた感情の中から黒い塊ができるように思えるのだ。そしてこの塊を飛ばす事が呪いである。

本当に恐ろしいことだが、生物の生存欲求というものに近ければ近いほど、呪いのチカラは簡単に増す。だから黒魔術とはシュタイナーが注意していることだが「生物を切り刻む」らしい。
これは納得できる。というのは先の例にも挙げたとおり、眠いのに起こされたり、気をつけて欲しいのは「食欲」については誰かの前で一人だけ何かを独占したりして反感を買う事がある時、
キレたり、食欲の恨みを買うというのは、人間というか生物としての「念」が強く作用する。

だから生物の本能に近い事で反感をかう事は、すぐに固まった念が飛びやすいので注意すべきなのがわかる。

ただ、恨む・呪う事も、本当は仕方のないことなのだ。人間として生きる以上、誰かの地雷を踏んでしまうこともあるだろう。でも悪気がなかったでは済まされないのだ。そのあたりは本当に人間として贖罪すべきは贖罪し、生きて行かなければならない。これは恐ろしいことなのだ。呪うほうだって、決して最初から呪いたいわけじゃない。呪うべきちゃんとした理由がある。そういう意味ではちゃんと「忌む」「慎む」ことは大切だとわかる。

さてその黒い物の正体についてだが、これはおそらく「意志」を持つようになるだろう。そう感じた。

つまりこうだ。呪うとは、その黒い物の密度を高める行為。
そして呪い手から独立させよう、という意志に他ならない。
そうするとどうなるか。呪いは飛んで行く。生命的なものを帯びるのだ。そのために呪うのだから。

だが、生み出したのは自分である。その行為は自分に付きまとうだろう。出産ではないけれども、何かの意志が世界に生まれてしまう。黒い意志だ。これも仕方ない。黒い意志もまた、悲しいことだが世界の結果である。

ほとんどそういう事は科学に似ている。それはそうならなくてはならず、避けられない。だから恨みや呪いを起こさないようにすることが、本当の平和だ。

普通の事なら良いが、他人の生存・生命欲求的な反感を買うことは、絶対にさけるべきだろう。もし呪いたい気持ちが出たら、私は呪うことを奨める。それが自然だから。であっても、その黒い得体のしれない生命をこの世に生み出したことは、贖罪に値する。回りまわって自分に来るのか来ないのか、まだ自分にはわからない。だが来ないにしても、どちらにしても悲しい結果になる。悪魔を出産するのと同じだ。本当に忌まわしい。

世界を呪うなんて考えられないことだが、大厄というトンデモナイ事態になった時、大厄なんかやはり気にする必要はなく、大体のことは諦められる。その不幸は流せばいい。そして自我が呪わざるを得なくなった時、やはり呪いつつも悲しみ、自我の強さを維持しながら、自我そのものを成長させるという気持ちで行かなければならない。

どんな災難もほとんどは笑えるし、仕方ない。だが成長はできるのだ。不幸は人生の糧である。これは強さを与えてくれる。くぐり抜けた時、起こった事を回収しなければならない。経験は叡智になる。これはどんな宗教や神秘学でも同じことを言う。
シュタイナーもカルマを語る時、いつもそんな事を言っていた。

人生からは色々な経験が得られるのは、諸氏の経験どおりだろうが、大厄もまた経験の一つであり、そういう意味では世の中の普通の苦労と少しも変わりがない。ただそれが多く集中するだけで、おそらくキャパが足らなくなるだろう。であってもそういう機会はそんなにないのだし、嫌々ながらも後で人生に感謝するに違いない。

大いに諦め、落胆し、期待がなく、幻滅し、生きる気力がなくなり、やる気が削がれても、それが大厄という時期なのであり、醍醐味というところで、諦めるしかないw 仕方ないんですよね。

呪いに歴史あり

続きを書こうと思った理由のうち、一つは呪いというものを考えるうち、悪魔的なものにも理由があり、例えば反逆の堕天使「Luzifer」ルツィフェルの神々への反抗心、ああいうのに共感できるところがあるなぁ、と思うからです。

例えばドス黒い気持ちというのも、他人の中に見つけると、
そのまま悪だと言い切れますよね。でも自分が全部事情を知ると、それは状況によって生まれてきた事がわかります。であれば、どんなドス黒い気持ちにも理由があることが明白です。悪にも歴史があり、状況があったはずです。それは悪人と呼ばれる人たちが、犯罪を起こすようになったキッカケがあり、環境があり、悪魔にもそれがあるのだと。

例えば火に水の気持ちはわからないでしょう。木は火に不安を抱くでしょう。
存在というのは、複雑で、今日の人間が馬鹿な頭で相互理解できると信じているように
簡単にはいかない、ということがわかります。悪魔もそうです。何でも複雑です。

そして厄という例で、人間の内的な生に直接原因せず、ただ間接的にしか原因しないような、
運や不運そのものは、外的なものです。外的なものが例え悪魔だろうが、神だろうが、
自我は排除します。自分があるからです。自分があるということは、自分の理屈や世界が豊かなのです。
そこへ外的なものが来ても、協力するかしないかは、自分の自由です。神でも魔でも。
そういう意味で「反逆できるような高貴さ」をルシファーは持っている。
しかし別の理由でルシファーは人間のような存在ではなく、異なった存在だから、違った難点があります。

ちなみに厄も含めて、「カルマ」における、不幸の実行者は、厄の実行者は誰なのでしょうか。
それは神です。不幸を生産している悪神は、神の役割を実行します。
言ってみれば、刑務所の看守を極悪人が務めるようなものです。それがミケランジェロの「最後の審判」に
描かれている悪魔や妖怪たちや人間です。つまり刑務所の運営を神は悪魔に委託しているということは、
大厄も神によって計画されていると言えます。つまるところ、幸運も神、不運も神が原因であり、最終的には
自分が原因でそうなっている。ちなみに災害などで(準備されてはいるが)理由なく死ぬ人は、来世で非常に向上するらしいです。
いわゆる神の世界もおおざっぱというか、たとえ厳正でも融通は利くらしい。
そういえば淀川長治が言っていましたが、子供の頃、母親が死ぬ時、死神が見えて、必死にお願いしたそうです。
「半年待ってくれ」と。すると半年後に亡くなって、何故1年とかもっと長く言わなかったんだろう、と。

ま、霊界というものがあるのなら、要するに複雑でしょう。事情があり、歴史があり、ルドルフ・シュタイナーが
あれだけ複雑に霊界を語っているよりも、もっと生き生きとして複雑で、リアルなんでしょうね。
人間として生まれる、というのは何か不思議というか、他の存在も同じように霊界から生を受けているわけで、
最後の審判図が、霊界の「曼陀羅」のように思えます。恐いですねw

いくら大厄があったとしても、今は本当に自由な時代です。大厄が及ばない範囲というのが絶対存在します。
どこまでも追いかけて来れるような厄災など、この世に存在しません。それは今は自由だからです。
大厄の中でも、少しは自由が利くようになっている。それでいいのだと思います。

QR Code