呪いと厄年の考察(②:宇宙論)

先日、こちらで厄年に対する自分の実感を書いた。
色々起こり過ぎて、冷静に対処するしかなくなるというもの。

呆れる位なので『諦めとか悟り』のような仏教的な方向に行ってしまうのだが、では全部を譲歩するのかというと、人間おそらくだが「誰にも譲れない部分」とか本能的に反感や回避をする部分【睡眠(エーテル体)とか食欲(アストラル体)】とかあるだろうと思うが、そういう線を超えて来た時、人間には怒りを超えて、『呪い』の部分が表れる。

呪う文化

日本だとあんまり聞かないし、また人前では?そういう習慣もないのだろうが、呪うなんていう「気持ち」は日常的ではない。
しかしドイツでは子供とかを見ていると、良く分かるが、「Pech!(呪われろ・不運を!)」という言葉があって、人前で呪いの言葉を上げる。

日本では聞いた事がない。文化が少し違って感情回路が異なるからだ。だから少なくともヨーロッパでは「呪う」のは日本よりも日常的な部類に入る。ヨーロッパでは口に出して、表現するのが普通だから、それでストレスも発散していると思われ。

日本で5寸釘を持って、「呪われろ」っていうのは、頭がオカシイ気がするよね。非常にパッシブだと思う。そう、今日書きたかったのは、いくら厄年だからと言って、全部パッシブに受け止めるわけがない、というアクティブな話。

呪われれば、呪うのは自然な行為

厄年には色々なことが起こるが、ある時から対応するのが無駄だとわかる。だから冷静に対処に無理に解決しないようにする。できるだけ自分の体力を温存するためだ。厄に全力で立ち向かう人はバカだと自分は思う。

だがある一線を超えてくる、自分にとって譲れないことに厄が触れてくる場合がある。恐らくそうした時に、「呪う」というのは正当な態度だと思われるのだ。

つまり、世間でも日常的に行われているように、例えば嫌な事があったら、周りに当たり散らしたり、人間って負荷がかかると当然の反応をする。「呪う」とは、厄という運命の呪いを受けることによって、自分もまたそれを吐き出す行為なのだ。考えても見ると、呪われるほどの扱いを受けなければ、人間として呪うわけがない。つまり自然な行為であり、理に適っている。

脱線するが、前回の話で、空想もまた心理的には現実に近いものなのだ、という話をしたが、「赤毛のアン」は空想好きの少女、という設定だった。空想に幸せを求めるというよりは、空想もまた生活に一部であり、日本人にとって何某かのドラゴンボールなり、ポケモンなり、ワンピースなりが、空想であることと全く同じように、エンターテイメント性を備えている

その赤毛のアンも、『赤毛を馬鹿にされると逆鱗に触れる』という恐ろしい性質を持っており、常識的に考えればそんなに激しく怒る必要もないのだが、本人にとって「そうはゆかない」のだ。そういうものは個性と偶然結びついてしまったため、本能を刺激し、本能が意識的か無意識的かは、少なくともどうでも良い。怒る理由を自分が知っているかどうかは、怒っている本人にはどうでもいい事だ。

呪いがまだ見過ごせる範囲で多発するなら良いが、そうでない場合は『俺を怒らせたな』という意識が芽生えてくる。厄ではほとんど多くのことを諦めたり、対応する余裕がなくなる。でも自分の本能的な部分にまでそれを、運悪く厄が拡張してきた時、思いっきり攻撃すれば良いと思う。

Pech!と呪いたくなる気持ちというのは、厄の場合、自分に原因が特にあるわけではない。それは厄の他の事と同様だ。だが他はやり過ごせても、ある部分では触れられては本能的に反応せざるを得ない部分があるし、また、あるべきなのだ。

つまり厄災を受けた時、「Pech!」と叫ぶのは自分に責任がないということを示しているし、一線を超えてきたら今度はこちらが「呪う」しかない。

誰かに「親切」を受けた時、自分もそうしたり、そう意志する。それと同じように、「呪い」もそうあるべきなのだ。

で、呪う対象は何?誰?ということになる。『厄』というのは、何が原因で起こっているのか、そんな事はどこにも書いちゃぁ、いない。ここが重要で、気にはなっていたのだが、そもそも「厄」の原理、「厄」の真因は説明されていないのだ。誰もが『厄は天の回り物』みたいに考えている。

それで済むのならいい。自分はそうは考えない。

厄の原理と真因

まず、手掛かりになるのは、厄と「本人が持っている運」とは異なるだろうという予測・実感だ。それに厄が人間の気質に直接影響を与えているとは思えない。これが「厄」を『自分には原因がなく、年の巡りで起こるもの』とする最も主な原因だろう。

ここで重要なのは昔は日本では「穢れ」とされる場合、「忌み」「忌まわしい」ということで、家に籠る習慣があった。これは多分正しいと思う。半分以上は。昔の人間は信心深いから、こうする事でリスクを回避できた。だから今でも旅行を避けるとか、重要な事はしない、とか。神社でよくありがちな対応となる。

西洋神秘学では厄など存在していない。だが男性で42、女性で35は7年周期の境目ではある。女性の厄の33という数字は自我の完成期である(ただし完成できればの話だがw)

R.シュタイナーも40歳頃を特別な時期としている。社会的・成熟的な意味だ。

で、まずは人智学的に考えても、仏教一般で考えても、不幸は霊的な恩恵だ、と考える。だから不幸はどんどん受け入れたらいい。しかし今の日常的「自我」にはそんな事は分らない。自我には認識がないので、不幸が不当であると感じるわけだ。

不幸そのものは受け入れても、厄が無神経にも自我の禁忌に触れようものなら、「自我」が「厄」攻撃しても良いのではないか。少なくとも、不当を受けた自我は、むしろ攻撃すべきである。

眠たい人間を無理矢理に起こすとどうなるか、普通はキレる。そういう当たり前の反撃が無ければならない。「厄」が一線を超えて来る、ある分野のみに意識的に反撃してOKなのだ。

で、厄がそもそもどう起こるか、神道で言う説明であれば、八卦や陰陽5行説となる。で、説明を聞いたところで、じゃ、納得するかというと、そうではない。なぜなら説明なんかどうでもいいから。本能を刺激される嫌悪感を抱いているのに、今更説明されても「はい、そうですか」じゃない。

もし人間が心情や自我をベースに考えるなら、陰陽5行説もまた外的なものと考えなければならない。もしその理論が人間の心情に影響する(=つまりアストラル的)のなら、人間自身が巻き込まれていると考えても良いが、そうではないので、責任はほぼない。

どうしようもないものには、人間は責任はないだろ?

大厄や宇宙の巡り、つまり人間そのものを生み出した「天」は人間の鏡であるから、「大厄が本当にあるのなら、人間の節、人間存在の意味と歴史に大きな関わりがある」に違いない。

シュタイナーを読んで一番大きな忌まわしきものは”5”である。
悪の原因は5であり、5番目の惑星つまり火星と木星の間にあった5番目の”悪”の惑星がそれだ。42と33が何らかの”5番目”に相当する。男性と女性は当たり前だが、反対の極であり、人間の要素が異なっている。肉体とエーテル体と魂と自我で、一番差異が少ないのは自我だが、自我が成熟する段階で”5番目”に関わるものが、厄年の原因ではないだろうか。もしも厄年があるのならw

男性と女性は人智学ではあまり触れられないが、男性と女性はその成熟度が、人生の時期で大きくことなるのは明らかだ。
青年期までは女性の方が何でも精神的に早く発達する。また性的なものに関しても更年期までで女性が終わり感が著しいが、男性はそうでもない。そんなに偏らずに満遍なく性的な能力が続く。言っていれば肉体的にも精神的にも女性は早く、男性は遅い。

これが厄の場合にもそうであって、女性の33と男性の42は、意味合いと発達段階としては、等価である可能性が高い。もしこれが正しいとすれば、男性と女性には10年近くも差があるわけだ。最近は価値観が同じだからと同じような年齢で結婚する場合も多いが、実際の中身は平均で10歳異なるのだから、本来は10歳位離れていても丁度良いように考えられる。昔は結構歳は離れていた。

また、人智学では7年周期で人間を霊的に観察するが、この性差というのは、生まれて3歳位からはすでに影響があるのは明らか。つまり人智学的な理屈は通用しないのだから、もしかして掛け算で割り出しても良いかもしれないw

7年周期説を採用すると42÷7=6だが、7番目の発達に入ったという事。つまり人間は「49歳が人間の真夏(=夏至)」に相当する。

33という数字も非常に意味が深い。キリストが死んだのが、33歳であり、もっとも自我として最後の成熟が本来33歳だ。女性のほうが現世つまり低次の自我に、ぴったりの成長をしている。33歳で成熟=死を迎えるというのは、女性はキリストのようだw

(岡田茂吉でいう小乗的の表現でいう自我。通常意識)

一方男性は生涯をかけて高次の自我を育成している。それが中年の盛りである、49歳だろう。男性が人生の理想主義者なのも、こういう観点では正しい。

(大乗的な自我と表現できるが、水のように拡散。意識下含む)

何故女性は低次の自我を体現しなければならなかったのかは、良く分からないが、男性と女性でこれほど違っているからこそ、お互い惹かれ合う理由があり、まるで違う目的で生きているかも。

厄に反撃できるか

対象がわからないものに、反撃しようがない。
だが呪いの元は、理論はともあれ、「宇宙」にあるのだ。
ドイツ語でいう、WeltenALLEであり、「世界」と呼んでもいい。
運命という言葉でもいいだろうし。

要は、何かしらの事情で呪われるようになっている。で、度が過ぎれば自分を守るために牙を向けなければならない。その一つが「呪いの言葉」でもあった。それは自浄作用と見做せるし、積極的使った方が良い。よく水に「感謝」の言葉を言う人がいるが、言魂的に「呪い」なんか「悪い」んじゃないかと思うけど、一種の病気みたいなものであって、湿疹が出て掻けば膿が出るようなもので、掻くのは良くないんだけども、掻くでしょ?掻かないとやってられないし、気が狂ってしまう。呪いの言葉も、自分自身を正常に保つために、積極的に浄化(?)するわけだ。

この考え方は、日本式ではない。日本は『忌み籠る・耐える』。

他の方式の反撃方法を考える

呪いの言葉を吐くだけでも、だいぶスッキリするものだ。

だが疥癬という病気で掻くだけでは一時的にしかスッキリしないように、まだまだ全然パッシブだと思う。で、どうするのか。

『大厄は不幸をいざなうが、本当に勝てない敵なのか?』

例えば、人間全般の運不運と、大厄の不運とは性質が異なるもののように思う。生まれ持った運や性質と大厄の時の急激な厄介さは別のもの、であれば、どっちが勝つのか。

大厄が勝ては、死を迎えるだろう。でも自分のケースでは大厄が勝つとは思えない。たかが大厄だと思える。自分の「運」は例えば家族の「運」とどう違うか、誰も説明しない。でも私は違うと考えている。淀川長治はそういうのに敏感だったけど、私は職場の「霊」とか家族の「霊」を考えている。それは個人よりも大きく、危険で、強制力がある。しかし「仕返し」もできる。

ガンダムというアニメで、サブの主人公シャアは、本来理想主義者たる父親の、息子だった。それが家族が裏切られ、対象が人類となり、自分個人が人類全体という「霊」に復讐しようとする。淀川長治も「家」の霊に反抗し、結婚してない。

自分が被った不幸を「誰に」仕返しするか、全然違う次元に仕向けることも可能なのだ。

でも自分の厄は自分が受け止めれる範囲で受け止めても良いと、私は思っている。次々と起こってくるものを地震が起きて物が落ちて来るのをよければいい。だが大切な器物が落下しているのに手を出さないわけにはいかない。

話を戻すと、その分野だけは厄の影響を避けるにはどうするか。

それには大厄そのものに、自分の運が干渉されない部分があるという事を知ることだろう。まず健康だったり、交通だったり、恋愛だったり、少なからず全部には影響があると思うが、被害が少ない分野がある。しかもベースの運がその分野で勝っていれば、大厄の中でも十分に運が良い、ということになる。
全体の大厄には逆らわず幸福を得る

つまり呪われていても、自分が影響されずに精神的に負けないようにして、かつ、守りたい分野を維持したい。しかし例えば、元々健康が良くなければ、健康面でベース以上のチカラは発揮できない。ベースありきの分野の維持だ。

もうこれぐらいにしよう。抽象的に言っても仕方ない。でも言いたいのは大厄に対して「見下す」ことが大切だ。呪われて「はい、そうですか」じゃない。「限界がある大厄に対し、耐え忍べばよい」、が大厄の時の一番賢い生き方だというのは分かる。だが、大厄そのものに仕返しする位でないと、面白くない。

大厄は存在なのか

人は厄を自動的なものだと考えている。たしかに自動的だ。しかし諸宗教が教えるところには必ず存在がある。悪があるところには悪魔が、善があるところには善神が。厄なんていうのは宗教なのだから、一貫しなければならない。

であれば、大厄そのものは、何らかの邪念の存在があって、その影響を受けてしまう、ということだろうか。ま、まず勝てないw

しかし、やられっぱなしじゃ、面白くない。

ではどうだろう、厄がベースの運と戦ったらどうなるのか、と。

そもそもベースの運とは、「自分の神」である。パイプである。

ベースの運は、家族・人種・前世・善神などで守られている。
大厄の運は、大厄の悪神(複数だが面倒なので1人と考える)が存在するとして、自分の運命という場所で戦わせたらどうか。

というか既に戦っているわけだがw、本人が激怒しているんだから、この状況で、例えばだが、『下り坂をもっと下降してみる』とかだ。そうするとベースの守護霊に負担がくる。すると困るわけだ。守護霊だって範囲内で必死だろう。ただこっちはもう我慢の限界なのだから、あとはお前らが勝手にしろ、と。

つまり「沈みかかった船をもっと沈めてもよい」という毅然とした態度で挑むわけだ。当然、あまり極端はアホだが、弱さを見せては駄目だと思うし、面白くない。どちみち、船そのものに依存する自分すら弱い。死ななきゃいいんだから、何でもできる。

この地上の火・風・水・土の中で、火がもっとも高貴だとR.Steinerは教えている。火は自分を失う事によって、神に仕える。つまり、自分が正しいと思った信念に従えば、死のうが、満足だということ。日本とアジア人は火の人種らしい。

だから戦闘も繰り返してきたし、無茶な戦いもしてきた。でも実はそれは一種の神に仕えるという生き方なのであり、死んでも良いのである。信念・つまり神に従えば、である。

前回のマッチ売りの少女もまた「火」である。童話には真実が隠されている。この世とあの世はどちらが真の世界なのか、空想と幸せとは何か、よく考えたい。

自分の神と大厄の神を戦わせるためには、大厄のほうにもバランスを取る、つまり危険な状況でも平気な顔をしていないと、そうはならないだろう。要するに厄というのは、外的なものであって、美徳ではない。運が悪いのがどうだっていうのだろう。自分がどうあるかだけが、問題ではないのか?

厄を気にしている暇なし

そもそも厄だろうと何だろうと、周囲の人間を見てみるといいが、「厄以前」に不幸な人間、可哀想な性格、下劣な性質、な人間は山ほどいる。そういう風になる事は、厄よりも厄そのものではないだろうか。であれば、テンポラリーな「大厄」が何だというのだろう。

しかしゾッとすることは起きる。自分の霊が如何に弱いものか。慎重にしないと勿論踏み外すだろうが、とにかく努力が必要だと感じる。

例えば仕事とか、必要とされるものに真剣に打ち込んでいれば良い。でないと今度はそっちが疎かになってしまう。

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