呪いと厄年(前厄・本厄・後厄)

最近、呪われている。

42の厄年の時、その妻と子が交通事故でフロントガラスに顔面から突っ込み、重症、、リアルな話を30代の時に本人から聞いた。

『厄年はあるか』

私は厄年というものは、その時初めて意識して聞いたわけで、頭から信じてはいなかったが、「防御の意識」は芽生えていた。

たまにネットで調べても「厄年」というものを、『運勢の上昇と下降のポイント』と捉える運勢諸師(?)の見解もあり、必ずしもネガティブではなく、捉えられているようだと知ってはいた。

確かに人生で苦痛を感じる

私は基本的に楽天家であり、「科学」も「神秘学(精神科学)」も冷静に重用するほうで、極端な意見を避け、人よりも「幸運」だと自認はしてきた。

人生で生きてきて、『生まれた家柄が大富豪』とか『チャンスを掴めた』とか、そういう上を見ればキリがないw幸運があるのは40代になれば嫌でもわかる。(ま、裕福でも健康を害したり、恋愛で自殺したり、人の幸福というものは一般的に金ではない。)

周りを見て、成功している人も運の要素で成り立っている事が多いし、人生は幸運の上にあると言っても過言じゃぁない。

だから「他人よりも幸福w」とは生来の楽天家の気質であって、今までは人生の場面・場面でそう感じて来ただけの主観的なものであり、特に根拠のないものであることも承知しているものの、であっても平和でやはり恵まれているとは感じていた。特にそんなに欲にガツガツしていないので、その事自体が幸福だとも考えてはいる。しかし、、、

最近になって、かなりヤバいなぁ、というか苦痛がハンパない。

まず自分も変化してきており、怒りやすくなった。これは良くないことで、オッサンがキレるほどみっともない事はない。世の中が見えてきた、という事もある。判断力が付いてきたものの、感情をコントロールするほうが疎かになる傾向があり、「自分が正しくても、怒ってはいけない」ケースに対応できなかったり、内的な教養が乱れる処もある。ゲスな中年ほど醜い物はなし。

岡田茂吉、曰はく『心の中でも怒ってはいけない』は妥当だ。
日本人の場合、心の中が煮えている人もいる。表裏がありすぎw

しかし冷静に考えても

だが、目に見える不幸もある。具体的な不幸など一般的にはキリのない事で、単に欲望が生み出すものだ。

例えばドイツに移住すること。これは他人から見てどうだろう?

実は外国に移住するのもネガティブな要素は、山のようにある。
言語の問題も大きいし、常識の違いもある。これは移住した人でないと判らないだろう。

そんな大きい事を挙げなくても、例えば今年に入って保険のトラブルを私は2件抱えて、自己解決した。職場も大きなトラブルがあった。住居も最近引っ越したのだが、半年見つからなかった。引っ越してもネットが開通しない、など。さらに身内の人間関係で根本的な問題があって、毎日が苦痛を強いられている、など。

自分に問題があるのか

勿論、自分のことだw 自分に問題があるに決まっているw

ではあっても、特に引越しでは、引越す先が『ドイツで今もっとも家賃が高騰している地域』だったのが、後から判ったのだ。

後で判っても、困るしw それまで「神など居ない」と考えるまでに人生不信に陥ったところだw 「これは間違った路線にいるに違いない」と自己行動を分析し、悪い点を改めようともした。

だがたまたま新聞記事で、自分達が最も難しい地域に引っ越そうとしている事を認識しやっと何か荷が降り、一応は見つかった。

こんな事を書くのも、これは全体の一例に過ぎず、全貌はこんなものではない。一応平和そうに見えるが、ものすごいストレスが続く。特にネットなど当たり前にできるはずが、ドイツの今の回線で、特殊な事情で、もう10回以上業者とやり取りしているが、まだ解決しない。しかもドイツ語でだし、困難という困難が来るので、最近は『悟り』『あきらめ』の境地に達した。

悟りと諦め

マジで笑ってしまうが、危険が極まりなく、油断できないし、期待もできない。特にドイツのサービスの低さは今度記事に書くが、何らかのサービスに直接電話しても、来た請求書が間違っていて、3倍の金額が引き落とされていたり、そんなことでさえまだ軽いレベルなのだw 問題は金なら、目をつぶればいい。

身内の人間関係が最もヘビーで、暗い毎日、ストレスを何故か強いられる。

ここで頼りになるのは常識だけである。岡田茂吉ではないがねwどんな状況でも健全というか、常識に沿っていれば大丈夫、と今まで思ってきた事が、何故か一番の頼りになってしまうほどw

結論的に言うと、確かに自分の責任なのだが、外部から起こるというかそもそも『運が悪い』事がベースである「疑い」が濃いw

人間関係でさえも、たまたま相手が悪人であれば、相手が悪かったという事でしかない。実際に犯罪者の近くにいることは、たしかに遠因としては自分に原因があるものの、直接の責任が自分にあるわけではない、という感じなのだ。

そこで厄年とは

知人の不幸を30代の時に目の当たりにして、注意はしていたが、ちょっと最近の出来事はハンパない「不幸」だ。

これだったら日本で「しがない生活しているほうが幸せ」だと感じてしまったw 健康には自信があったものの、原因不明の首の痛みも出て来て、首枕を買う始末(最近お気に入り)。しかしながら「運そのものが悪い」という感じではない。

例えば最近知人から車を譲ってもらった。多少自分で整備しなければならなかったが、それでも「基本的な運」は落ちてない。

上手く言えないが『自分に関連するもので、避けられないものだが、自分が決定的に悪いわけではない、むしろ普通なのだ』だ。

例えば、ドイツに移住することは人生が向上に向かうかもしれないし、それを望んで来ているわけだが、自分はそれほど固執してないし、日本の回転寿司が安くて大好きだし、ドイツ移住が向上かどうかは、結果としてあとで自分がそう思うかどうかでしょ?

そういう『人生が向上するかどうか試練の時が厄年』というのは今の自分にはまだ言えない。でもそういうスピリチャルすぎる意見もやはり否定はできない。折角厄年に何もなく過ぎてラッキーと思っていたが、これは後厄になるんだろうか。数えで計算するものなのだが、もう過ぎているような気がするが、数えでなければドンピシャである。そういえば数えとはいえ、年末に生まれていたらズレるかも。私は12月生まれだし。であれば納得が行く。

『死ななければよし』

まぁね、いくら困難が訪れようが、怒ったり苦しんだりすることが、実は無駄じゃないか、と最近思ってきたのだ。

苦しんだりすることも、極力『騒がず』、当たり前のように、淡々として処理するのが正解ではないかと。

推測だが、あまりにも色々と起こり過ぎるので、何らかの麻痺が起こり、反応しないのが正解であるとプログラムされた、と。

そういう何か「問題染みたもの」が降って来るのだが、常識に従っていれば3倍請求されようが、明細見て注意していればいいし、最悪「死ななければ、人に迷惑かけなければ、自分が迷惑を被ってもOK」みたいでやり過ごせばいい。

ただ病気になったら終わりだねwそれだけはアウトな気がするw
であっても軽度の不規則な痛みは昨年も経験したし、今も初めて首が(回すとたまに)痛い。こういう人生の感覚論って他人には共有できないかもしれないが、今自分に病気や死が訪れるならば、完全に白旗あげたい。今まで多少は健康に自信があるから。

呪いとは

なぜ呪いと書いたかというと、今まで自分はそう思わなかったのが、人を呪いたくなる気持ちや言動が起こったから。

「何を大げさなw」と思われるだろうが、自分はあんまり他人に対して呪うほど関心がない。つまり基本はどうでも良いと思っている。だから愛憎とか、嫌だし、平和主義で傷つけられても、まぁ根に持たないことはないがw、「呪う」なんて発想もできなかった。だが、今回は自分が初めて他人を呪いたくなる気持ちになったし、そもそも、『この厄そのものが呪い』だと断定した

人に対して怒りがあるのはよくある話だが、呪うまで行った事、そしてこういうトラブルが多発し、それを自分で受け止める際、『呪われている』と考えたほうがまぁ、冗談半分、疑い半分、といったところで、『呪い』という言葉を使った。楽だからw

でも自分の呪いだとわかる。「これは自分の呪いだ!」とは言えるw 状況などを考えると、自分を中心に起こっているからだw 身内ではない。だから身内が可哀想だ。その厄を被るのだから。

皆さんも厄がある身内には近づかない方が良い。菌に感染しているわけじゃないので、友人レベルだと毛嫌いする必要はないが、身内レベルであれば経験から言うと、十分に厄災が降りかかる。

さて、僕の疑いは『この呪い何なの?』です。僕自身はこれが誰かの想念に引き起こされた「生霊」などではないと思っている。神秘学も神道も、念にはチカラがある事を教えている。

僕は嫌いな考え方なのだが、僕の祖母も夢枕に立つような、霊的な人間であった。源氏物語というのはよくできたものだと思う。念に力がない、という浅はかな人間性では僕はないけれども、信じたくはない。だってそれがスタンダードになったら、呪うヤツが一杯出てきたりしてw 考えるだけで人間の醜悪さを連想する。

ともあれ、厄=運命の呪い、と僕は考える。
でもそんなに深刻なものではない。深刻になろうと思えば、いくらでもそうできる。騒げば負けなのだ。安全を確保し、周りの状況に流されず、死ななければOK、と思えれば過ぎ去るだろう。

え?過ぎ去らなかったらどうしようw 仕方ないよねw
厄そのものが「過ぎ去るもの」として考えられているのが、むしろ凄いと思う。昔の人は賢いよね。日本人ね。日本ってアホな宣伝文句のとおり、クールジャパンではなく、神社のシキタリ周辺がすごい賢いと思う。日本文化というか、神道文化って凄い。

日本って芯が賢いんだろうね。極0.数%の割合で、凄く賢い。
あとはバカだね。クールジャパン、工業技術、ああだこうだと言われているのは全部馬鹿げている。でも民族魂の中の良い部分はおそらく世間では言われていない事なんだ。そんな事気づきもしない、という所が、ミクロでなくマクロ、マクロでなくミクロ、両方にあるんだよね。ま、ドイツにもどこでも、そういうのあるとは思うけど。民衆は馬鹿で、賢者は見えない。でも「ある」んだ。それが素晴らしい。

そういえば、この「呪い」、宗教じゃ取れないね。わかる。

神道の神社だったら取れるかも。でも今ドイツなので「厄払い」できない。うーん。。ちなみに交通事故的な運勢ダウンは自分には無い。ドイツの交通違反で、車間距離違反(3万円位‼)はつい最近取られたけどw やっぱ厄だわw 自分が悪いんだろうが、かなりレアケースだし。

自分が凹んだら負けw

死ななければ良い、っていうのも、結局は人生をどう考えるか、であって、不幸は受け入れれば良いのだ。岡田茂吉の「病気が1個ならまだしも、何個もあったら人間は耐えられない」というような言葉をよく思い出すのだが、ま、何個も受け入れればよいのだ。結局人生は半分は主観なわけだし、自分の場合は、その半分が結構守られている。でも呪うほどの気持ちになったら負けであって、やっぱり主観だけはキープしたいよね。つまんない事で悩んでも時間の無駄。ネット繋がらなければ違う事すれば的な。

最近「人生は主観ダナァ」と思う事がよくあって、DAYDREAMというか、幻想ですら、それは幸せの形であるとさえ思えている。

マッチ売りの少女の幸せは、やっぱり幸せなんですよ。
でもこう思うのって悲しいんだよね。現実主義者だと怒るレベルだし、僕も一面はそういう見方が嫌いでもあるが『あながち間違っていない』とこの歳になり気がついた。

片思いは恋なのか、というレベルの話ではなく、全然現実の存在ではないものに恋しても、幸せでしょ?というレベルね。

つまりー、今、幻想を考え出すわけ。いわゆる空想ね。
ま、最近になって思うが、ドラえもんとか、マンガなんて全部空想なわけでしょ。だったら他人が考えたものと自分が考えたもの、どっちが優れているの?ってな話で。自分が構築してもいいんじゃないですか、諸君。要はルール作りであって、楽しめば良い、という事。遊びの一つなんだよね。

でもこういう事がわかるって、マッチ売りっぽくて嫌なんだけどねw 厄年だからの醍醐味なんだろうか(爆)

さらに脱線すると、人生経験を良く思い出してほしいが、結局良い思い出によって、人生って豊かになるよね。でもそれって結構主観に近いんじゃないかって、最近思うわけ。であれば、主観さえコントロールできれば、豊かさってコントロールできそうだなwと。人生にある局面があって、それが良い思い出になるか、普通の思い出になるか、そういうラインって、結構微妙だと思うんですね。よく女性がこういう事を気にするんだけど、主観の生き物ゆえにそれは正しいわけ。

人間ってこういう所が不思議で、客観的なものがなかったり、自分独自のオリジナルな空想だと、価値を置かれないのだけど、実は価値を置かない人間もそういう主観で生きているのに気づいていない、っていうのが可笑しいよね。

つまりね、豊かさっていうのは今作れるわけw 精神なのだから。

子供の生き方って、今を生きてるでしょ。今、豊かなの。何か別な基準があるわけじゃない。

そういう素敵なことが、厄年でわかりましたとさw

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