愛し合うこと

アントロポゾフィーや岡田茂吉の思想、そして人生を見渡して思うのは、世の中をどう見るとか、世界はどうあるべきかとか、そういう霊的世界観もあるんだけども、一番重要なのは、キリストの言った『愛し合いなさい』というところにあるんじゃないかと、つくづくに思う。

愛し合いなさい

アントロも岡田茂吉の信奉者も、結構、愛が足りないと思う。

お互いに理解しあう度量が少ない。世界はどうあるべきかなんて、小さい人間の狭い考えであって、一般論では正解かもしれないが、正論を固持して他人を見下しても、結局意味がないんじゃないか、片手落ちじゃないかって感じるのだ。

Happyがないところで、いがみ合うことが、どれほど重要なのか。一体何と戦っているのか。結局自分のしたいようにしたいだけじゃないか、それは仮面を被ったエゴであって、愛し合うことがなければ、価値がないように思えるのだ。

結局のところ、何を信じようと、人を愛し、宗教性を身につけ、善行を行うだけのこと。人生という道場で、大切なのは、『世の中に問題は山ほどある。それを皆で解決しなさい。そして愛し合いなさい』そういうように思えるのだ。

他人を排除して住まう世界

結局、エゴなんて正解にならないと思う。どういう運動だって、正しいと思い込めば、その分だけ敵を作ったり、誰かを犠牲にする。それってそもそもが間違っている『悪』なのであり、それに気が付かないと、大変な間違いを犯していることになるんじゃないか。誰かを愛するって簡単なことだけれども、具体的ではなく、一般論的な姿勢のことであって、その場にならないと正しい行為にまで至らない。

アントロポゾフィーもゲーテアヌムなんかは、学術や芸術の集中機関であるが、そういうものは才能があったり、それを推し進めたりするだけの話。それをするのが偉いとか、そういう見方って幻想なんだよね、と。専門性があってやってるけど、基本はバーゼルの他の製薬会社とは変わらない。学術なのだから、単に学術的な価値があるだけの話だ。それは学術的な才能に起因するだけの話。それと愛なんていうのは、全然関係ない話なんだと思う。芸術も同じ範疇に入ると思う。

学問や芸術は文化

ゲーテ的な考え方とか、学術的な価値というのはある。それは文化だ。文化というものは皆が愛するものである。そうして発展したり衰退したり、それは芸術の方が顕著だ。そういうものは面白いとは思う。楽しみと言っても過言じゃない。そういう文化を守るってのは価値がある。それは文化遺産を守るのと同じ意味だ。それでいいんじゃないかな。

そして力量があれば発揮すればいいし、それだけのことだと思う。

文化の担い手たる意識―そういうものがアントロは顕著だと思う。しかし影の部分が出て来る。どうしても自分が偉い、もしくは自分の有する文化が優れていると考え始めると、そこから弱点が生まれるのだ。そういう部分は冷静に感じなければならないと思う。「使命」とか「使命感」とう部分に流されちゃうと、「人間としてのトータルな普通の意識」とのバランスが狂っちゃって、無理が出てきて、外部が敵だと思ったり、自分が孤立しちゃったり、アイデンティティー問題になっちゃう。差別だよね。

もしかしてアントロが発展しないのも、つまりラテン系の生き生きとした普通の生活圏(イタリアやフランスなど)にあんまり支持されないのも、そういう自作自演みたいな「熱気」が間違っているからじゃないかなと。

岡田茂吉の方も、世代交代が進んで、似たような問題を抱えているように思う。これもどの点を観るかなのだが、敵を内部的に作ったりして、ケンカも多い。何故そんなに不安なのか、やっぱりエゴに向き合わないと解決しないと思うよね。逆に愛さえあれば、すべて上手くいきそうなものなんだけど、日本固有のやり方って、病的にも映るものだし、世代によって考え方も大きく違う。何故そんなに不安なのか、それは疑って、信頼してないところもあるけど、誰も訓練なんか受けていないからだと思えるところもある。日本的な人間関係って、情とか、恩とか、コテコテのサムライが思い込みで行動してる部分があるから、自分の考え方が破綻していても、そのまま突っ走るという事が多くて、すぐに衝突する。だいたい人間ってそんなに偉くできていない。賢くできていない。だから引っ込みがつかなくなって腹を切るような極論にすぐ走ろうとする。間違いがあれば、反省し、検討し、まずストップするっていうのが、本来じゃないかな。岡田茂吉は真剣勝負って言ってたけど、真剣に反省したり、間違いを認めるっていうのは、人間としての本来の姿だろうとおもう。

縦型の人間社会って、横から見ると凄くモロい。岡田茂吉自身が縦と横でやらなければいけない、って言ってるくせに、日本人は全然縦型だから、西洋社会ではすごくボロが出る。そうすると横の社会で「信頼」とされている常識に抵触しちゃって、すごく非常識に映っちゃうんだよね。

愛ってなんだろうね

愛って凄く良いものだろうけど、仕組みがないと上手く機能しないような気がする。社会ってそういう土台だけど、土台そのもの・考え方そのものが間違ってる場合が、本当に往々にしてある。だからトラブルや問題が絶対出て来る。ま、仕組みが良くなければ変えれば良い話なんだけど、歴史や考え方ってそう簡単には変わらない。僕は社会も建築も結局は考え方の固形化だと思っている。本当は正しい考え方ではないが、それがシステム化された時、人間の方がそれに合せなければならなくなる。良いシステムを作るには、良い考え方がなければならない。

寄付っていうシステム一つとっても、それ単体だけでは力にはならず、有効性とかより考慮されたバランスの話になる。結局システムはより有意味な方向に進むべきだけど、それはカオスが前提になっているから、人間のほうがそれに合せなきゃならない。それがトラブルとか問題ということ。もし今、社会がコスモスになれば、問題は起こらない。だけど完璧な仕組みは完璧な設計がいるのだから、大変なことだ。

トラブルはある。しかしそういうのは、外的なことで、「愛し合いなさい」ということは内的なことだから、全然違うこと。客観的な眼で、「もっと愛し合ったほうがいいよね」というキリストの見解ってのは、すごく冷静だと思うのだ。愛し合うってのは、内側が外に出て来ることじゃないかな?

意見の相違もある。それは相容れないものだけど、だからと言って、そんなに問題かというと、実はそうでもない。当事者が問題とするだけで、1%の差異が決定的と考えるほうが、精神異常で、意見と現実の違いがわからなくなっている。そういうのはよくあるんじゃないかな。結局は自分の意見というのが、そんなに大事かというと、そうじゃない。

確かに、人間は全然違う精神構造で生きている。だからといって、誰かに合わせないと駄目かというと、そうでもなく、70%同じ方向なら、いいんじゃないのか、とか。別に仲良くすればそれでいい、みたいな機械的なものじゃないんだし、内側が外に出てこればそれで良いようにも思う。

車の運転と愛について

どうしても合わない人もいるだろうし、それはそれでそっとしておけば、注意していれば事故みたいなことも避けられるだろう。問題は素直な人ではなく、何か表裏がある人で、そういう人に限って、とてもややこしい問題を起こす。そういう人は、いわゆる野獣で、ま、誰しもそういう部分はあるかもしれないが、深く付き合う場合は、交通事故と考えれば良いのでは、と思える。運転が荒い人は、よく事故を起こす。そういう人は内的な諸事情と問題があるからで、安全運転さえ気をつければ、意外と世の中は上手く行くようにも思う。愛は、そういうこととはあまり関係ないようにも思えて、ごく一般的な考え方に過ぎない、と思えるのだ。

愛は人間関係の交通事故とは無関係、ということ。

このあたり、誰と仲良くなるか、人間をよく見ないと、事故ばかり起こしている人間の周りでは、全てがカオスになっている。だけどこういう人間は無理をし過ぎて、意外に精力的だ。こういう人が組織の長になっているとちょいヤバい。誰とでも仲良くなるというのも、台風の目と同じように、それに吸い寄せられて、滅茶滅茶になるだけの場合もあるだろう。別に人を選ぶという訳ではなく、単純に表裏のある人や交通ルールを順守せずに無謀運転を繰り返す人にだけ注意していれば、普通に車は運転できるものだ。

あと車の運転の話で言うと、そもそも右車線か左車線か、ルールがなければならない。人間関係というのは、こういうことがあまり決まっていないように思われる、だから「道を譲る」と「道を急ぐ」が分かれる。これはルールが決まってない以上、譲るタイミングとか、どちらが譲るか、都度考えなければならない気がするのだ。微妙に、非常に微妙に、いつも人間はそれをやらなければならないというか、やっている気がする。

だから人間関係上では人間を観ることが大事

愛の問題じゃなく、自分の人生の設計とか運行面で、人を観るというのが、残念ではあるけれど、重要になって来る。世渡りという言い方が僕は嫌いなので、「運行」と呼ぶのだが、社会関係上、トラブルだらけだと、自分の車もボロボロになるし、「物理」として考えると、接する人間をある程度注意したほうがいい。それは車の運行として。

これは何か『欲の深さ』とどうしても関係するんじゃないか、と最近は思う。欲の深い人間は、本当にややこしい。要求が。それは一定の目印になると思う。でも外見やちょっと付き合ったくらいじゃ、全然わからないし、人を疑わない場合は、気づきもしないだろう。でもそういう人間からは離れないと駄目だと思う。事故るから。

逆に幸せな人間はどういう所に行ってしまったのだろうと、首を傾げる。幸せこそ、人間の常態ではないのか。愛も、普通の人達の間で、発揮するべきだろう。ちなみに祖母は夢枕に立つような、変な霊的な人だった。すごく選り好みが激しく、時に家族を巻き込んで不幸にした。私は愛されたのだが、こういう野獣のような性格は、気が狂っているとしか言えない。普段は良いものの、凄く極端でおそらく自己をコントロールできないのだろう。でもこういう人にも愛が必要なのだ。愛に飢えているのか、愛が余っているからなのか、異常なエネルギーがある。人間に善だとか悪だとか、言えないんだろうが、でも異常だとは言える。果たしてこの異常さが真実で、周りが間違っているのかもしれない。であっても、常軌逸したそのエネルギーは恐ろしいものだ。

愛は、そういうところでも、どういうところでも、あって然るべき。しかし気に入られたり、気に入られなかったり、人間関係があるところでは、そもそも気に入ったりすることも、無意味だとここでは断言したい。社会生活は気に入ったり気に入られたりするところではない。そういう駆け引きは自分の中でやって欲しい。一般的な愛情こそ、素敵なものであって、それが中道なのではないか、そういう気がするのだ。

人間は見えない酷い傷を隠している場合もある

これはカッコイイ言い方では全然ない。例えば、子供が居ない、子供が死産したとか、個人的なもしくは生物的な傷を持っている場合がある。

どういう環境で育ったか、見えない。徐々に明らかになってくるものだ。人間の内側にあるものは、蛇のようなものの場合がある。だからこそ、狂気が人知れず人格を拘束しているようにも思える気もする。

カルマという言葉を持ち出さなくても、人間を観察するだけで、狂気が人を支配している場面に遭遇することもあるし、特にこういうものは破壊的に人間社会に害を及ぼす。良いものではない。蛇が知能で周囲を破壊するのだ。

だから、常軌を失した行動や暴走運転は、社会と周囲の人間に、被害を与える。その被害を低減するように、周囲の人間も作用する。そのように社会は本当に動いているわけで、敵とか味方とかではなく、事故やほとんど天災と呼べるものが起きる。人間のインナーネイチャーだ。

全ては病気と病人

実際のところ大なり小なり、人間は不完全で問題は幾つか抱えている。そしてそれは仕方ない。認知症の人に真剣に怒る人は居ない。同じように、社会で遭遇する「馬鹿」もやはり怒ってはいけないのだ。何かしらの病人だと言って差し支えない。馬鹿の壁という言葉も全く同じことで、次元が違うものに、物差しは通用しない。数学的・物理的に適用できないのだ。それは認知症に尺度が通用しないのと、まったく同じこと。

愛はその次元は超えられる。理屈じゃないのだから。論理ではない。

西洋でも論理と愛が混同されている。論理を尊重する文化だからこそ、愛が分らなくなっている人も多い。ドイツ人には特にこれが難しい。

愛っていうのは理屈じゃない。でも冷静に見ると、あって然るべきもの。行為ではなく、ハートの問題なんだよね。そしてそれはややこしい問題とか、関係ないわけ。で、シュタイナーは行為の中にエゴは隠してしまえばよい、と言ったけど、それは行為の話であって、前提としてはハートが先に来る。社会とか規範(社会+価値)とか、全ては「考え方」のカタマリなのだから、愛を論理で規制するなんて、非常に矛盾した態度だ。

エゴも難しい問題

愛というとエゴの問題も引き合いに出される。だがエゴとは成長の概念とは切り離せない。愛というのとエゴというのは、成長してゆくものではないのか?とここでは提示したい。50代のエゴは非常に厳しいものだ。でも30代のエゴはまだ十分に柔軟性がある。だから一概に愛とエゴの問題なんて、一般論としては論じられない。エゴイズムが槍玉にいつも挙げられるが、そんなに簡単に個人の人生に一般化できない。

エゴイズムが他人に迷惑をかけないという程度のものであれば、それをエゴイズムの槍玉にかけるようなことは、現代社会においてない。これもその人の度合いや成長に関すること。人がどのように成長するか、誰が手を差し伸べられるのか。むしろ、エゴが目の敵にされるような風潮もまた、社会的な抑圧に過ぎないように思う。エゴは正確に言うと、自我の玉ねぎのような感じもあるように思う。エゴや自我というのは、対応する経験によって、自己認識を形成するのであり、対応する経験がなければ、エゴもまた自我と同様に未発達に留まる気がしている。だからこそ50代のエゴというのは、非常に目に付く。これも成長の物差しに過ぎないので、特に日本人(東洋人)のエゴ形成と西洋人のエゴ形成の違いを見ると、本当に面白い結果を見るだろうと思う。

特にエゴとは社会性と関係することであり、社会経験や風潮・環境に応じているので、50代の西洋人と東洋人を較べて見ると、どういう社会で育ったか、またその歪みが明らかになるだろう。人種ではなく、日本人であっても、西洋社会で育てば、西洋人のエゴを持つように思える。そのエゴの性質もまた、社会規範などを反映しているため、異なる。しかしこれはほとんど個性に基づくため、東西を問わず、エゴ満載な人というのはいくらでもいる。人間は人格を形成していく植物のようだと考えざるを得ない。

あまり今回は深く考える必要もない。「愛し合いなさい」これはどんな人にも当てはまることなので、これを実行できていれば、決して間違いはないように思う。もしできないとしたら、(勿論細かな例外を除くとしても)、やはり問題があるように思う。だからと言って、事故が起きないということには全く関係がないことなのだが。

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