大きくなれ【人格形成と哲学】

卒業文集の寄せ書きに「大きくなれ」とある友達が書いた。

今更なんとなく思い出しただけなんだが、言われてみると自分は小さく映っているんだな、どう映っていたんだろ?と40過ぎになって思った。

確かに大きい気持ちを持つという事は、明らかに善いことだ。
それは具体的な物事というよりも、もっと性格的な、「生き方」に相当するものだろう。それはわかる。そもそもが広い心を持つこと。

本当に、大きいことは良いことなのか?

バブルの頃とか、皆そういう考えだったりしたよね。

啓発本の類というのは、昔はそこそこ好きだったが、だんだんと僕は根拠が無くて、ナナメに見るようになった。そもそも「生き方」を他人に伝染させるってどうなの?とか、それって哲学じゃない「単に俺流w」じゃないの?っていう『浅はかさ』の裏返しとも取れて、馬鹿っぽく映るのだった。

でも、自分は結構最近、ネガティブなタイプであることがわかってきた。
確かに、知り合いの社長達とか、バブル世代のやり方とか、本当に馬鹿に思える。だが、大きくなれ、という事はそれほど悪くない、自分にはそういう生き方や性格が有用だとも、すら思うし、感じる。

ひと旗上げるとか、アメリカンドリームとか何?

イケイケの考えには正直付いていけない。そういう事で何か得する事もあるだろうし、世間的にはそっちがメジャーなのかもしれない。

でもかなり現世的で、高尚な臭いすらない。「ゴットファーザー」とか悪くはないんだけども、「俺には夢がある」とか、それってオレオレ的だとも取れるし、冷静であるという前提で、そう思えるのは良い事だとは思える。この辺はバランスなんじゃないかな。

で、問題は、40年そういう風に思わなかった人が、急にそういうスタイルになり得るのか、そういうのが自然にできるのか、ということ。

「何か嘘くさくね?」と。今まで全然そうじゃないクセに、どっかから拾ってきた何かを付け足すってどういうこと?と。地に足をつけて、考えるなら、全然自分のネイチャーに合わない?ものを導入するのは、何か変な気がする。

でも、悪い考えじゃないし、他人からそう映ったのなら、大きくなろうと思ってもそんなに悪いことでもない。

夢がないという現実

自分には夢がない。昔は何かしらあった。どう生きたいか、漠然としたものがあった。だから海外に渡ったり、色々はしてきた。でも今は何でも良いとか、どうでもいい、どちらにせよ、どちみち、そういう考え方に変化してきた。変に言うと、道がない。生きているという状態だけがある。
勿論哲学ややり方、行動様式はもちろんあるが、規制的なものがない。

もしかしたらそういう「種」の胚珠みたいなものを使い切ったのかもしれん。。自由ですよ、と。だから自由がある。でも反面エネルギーや活力がちょっとない。その場の状況には対応できるが、「自分が」とか、「この夢が」とか、要するに「自分がない」のかもしれない。

マイホームが欲しいとか、フェラーリがとか、あるには越した事はないかもしれないが、どうも同調できん。嫁が欲しい、子供が欲しい、ああだ、こうだ、というよりも、今あるものをどうするのか、くらいにしか考えられない。無いものを欲しがるのが、ジェネラルに言うと、ピンと来ない。

欲がないわけじゃない

言ってみれば「メンドクサイ」のかもしれない。それでギャーギャー言うのが、疲れるんだろうか。具体的に言うと、アレコレの欲求はある。が、こういう状態というのは、「病気」や「老化」なのではないのか。

「メンドクサイ」>「欲」という天秤の問題で、パワーがイマイチ出ないわけだ。そういうわけなのか。。それと大きい小さいとは別のことのようだけど、『やる気が出ない』という面で言うと、小さいことへエネルギーを注ぐ事への嫌気みたいなものに正直捕われるのだ。ネガティブってこと。

「メンドクサイ」って人間が賢くなるつまり「老いる」と、どうしてもあって、エネルギーをセーブしたがる。バカバカしいから。でもそれじゃあ、生きていたって張り合いがない。年寄りには年寄りのまめさ、勤勉さが必要ではあると思う。

例えば政治や世の中の流れ

バカバカしいとは思う。正しいものが実現できないっていうのは、悪があるから。矛盾だらけだから。だからこそ、サラリーマンが奴隷として生きるとか、そうなっていくのだろう。言ってみればキリがない。でもそれって単にネガティブな結果に捕われているんだろう。『経験的に』

だが、馬鹿に捕らわれて生きるってのもまた、つまり、経験的には上手く行かないのはわかるものの、経験知そのものは、「馬鹿ではないもの」は経験していないわけだ。つまりポジティブな側面は洞察し尽くしてはいない。そういう風に思う。

夢がない状態からブートする

賢さとか経験知とか冷静とか、そういう部分ってネガティブでもありうる。

実際そうだから。経験知がネガティブ範囲で発揮されると、誰でもやる気を失う。でもポジティブ範囲を考慮するなら、経験知は有効に活用されるはずである。つまり今ないものをあるように考えて、賢さを適用するということだろう。基本的にそうありたい。ただ社会に光がなければ、目標も、プランもヴィジョンも何もない。

理想ーとは本来そういうものだろう。夢はそうかどうかは甚だ疑問だ。
でも社会に理想があれば、多くの人がそれに影響されて、活発に生きれる。そういう気がするのだ。

とはいえ自分のやる気を社会のせいにするわけでもないし、むしろ『自分のやる気をどうやったら社会に繋げるのか』という道筋が問題であるように思うのだ。どうせ選挙行っても世の中は変わらない、と思えば、個人としては選挙に行く気が失せるw むしろ個人としては賢いんだけど、大きく見れば負のスパイラルにしかならない。ま、例としてはそうだけど、自分の目標が社会とどう関わっているのか、具体性がないと、イマイチ嘘くさい。ぶっちゃけ、社会は変わらないとしても、自分はどうありたいのか、そう考えるほうが自分には自然に思える。ま、それが理想主義だとはいえ、何かプランめいたものがないと、首尾一貫しないよね。

実際、社会は関係ない

社会は変わらなくていい。どうせ変わっても知れている。そして徐々には変わっていくものだし、それでいい。自然に変化さえすれば。

でも社会っていうのは「価値」がある。色々な価値観がある。その中でどう生きるのかっていうのは、問題だろ。あの人がこう立派だとか、俺はそういう風には生きない、とか。かなりの人が気にしている。自分もそう。

ニーチェは自分の「善」があり、「我々の」という部分は捨てた。

そもそも夢っていう部分は、社会の「価値」に目配せしているだけじゃないのか? っていう疑惑。「比較」の中で育ったものだから、劣等感とかの裏返しで、「夢」を持って安心するとか。そしてその「比較」そのものがもう、自分には「つまらない」と思っているわけだ。そんな流れには乗りませんよ、っていう。下らないものには入っていきたくない、という。

そういう意味でニーチェの言うとおり「価値」って恐ろしいものだと思う。だって人間を左右しちゃうんだから。

社会の通俗的な価値観って、本当に怖いな、と。これも知的な人ほど、そういう傾向にあるんじゃないかと。立場とか。社長、教授、有名人?つまり「権威」ね。権威に弱い。なぜなら自分が持っていないから。言ってみれば「自由」ということかもしれない。資本主義であれば、金が自由の保障なんだから、そういうシステムがあると、自由が欲しいので、どうしても「金」のほうに価値観がいかざるを得ない。サラリーさえもらえば、自由がある、みたいな。そういう議論をもうずっと人間はしている。

これもおかしな話で、生存競争の部分を精神化してすり替えている。

生存競争と価値観の混在

生存競争というのは、実際のところ、そんなにしなくても良いんじゃないかと。金というのは生存競争の範疇に入ると仮定しても、価値というのは別問題でしょ?立場と金が釣り合わなくなった社会というのは、現代でもそうなってきてるけど金の方が勝っちゃって、より自由が得られる。

自由(価値観の最上位) → 金?

「金が一定量あって、価値もそこそこ」というのが、現代人の妥当な生き方に現れている。実に大衆は敏感にできている。それでいいとは思う。

そもそも社会の「価値感」が重要じゃない。自分の価値観が重要だ。

自分の価値観というのは、そもそも何?

知り合いのドイツ人に住む家がない、金もない、身体にも障害があり、ドラッグ更生中の人がいる。皆、可哀想だね、みたいに思っている。
自分達は家も金も健康も問題も、抱えていないから。そういう倫理感って何か間違っていると思うんだよな、と。

上から?もしくは他人目線で、そういう人を見るって、倫理観の限界というか、社会に適用した側からの目線であって、何か価値観が違う風に思う。

でもそんな人、ザラにいる。程度こそ違えど。まるでテレビ画面で観る戦争のニュースみたいに、可哀想だねと。自分は痛くも痒くもない。

そう、でも感じている。明日は我が身じゃないのか、と。何かがオカシイのだ。何かがどっかで間違っていて、どうすることもできない。でも価値観から言うと、すぐに助けることができるんだろうし、例えば、無宿人はヨーロッパでは結構、助けられない。あと一歩でホームレスなのだ。

日本だったら、無宿人を追い出したりしない。でもヨーロッパ人は結構追い出す。それがドラッグであれば。大きい眼で見ているだろうけどね。でも寒い冬に家賃滞納で追い出される人を見るのは、衝撃的すぎる。刹那すぎる。

身の回りの社会を見て、何か価値観というのが、ズレている。では自分の価値観をどう発揮する必要があるのか。

こういう時、「まっとう」という言葉が適切かもしれないが、論理的に考えて、社会の中で、自分の価値観を実行する、という必要性を感じる。

そこに社会に適合した人の夢とか、社会の価値観とか、あんまり関係ないんじゃないのか。自分の正義、それしかない。だが自分の正義があるのなら、自分のやり方でそれを実現できなければならない。

そして、それがハッキリとわからないのだ。そしてわかるものなのかというと、決してそうではない。社会というカオスは、何か背負っている。それと闘うべきだ。しかしどう闘うのかは、考え方次第。闇だらけなのだが、興味がなければいけない。

結局のところ、社会とは考え方の反映。価値観の反映。つまりシステム自体に価値観が含まれている。価値観の合意が、システムを作る。お金でモノを買うというのは、その金額の価値観で納得したということ。

もし社会の価値観に納得いかない場合、社会に参入する余地はない。しかし極論ではなく、ポジティブな側面をどう観るのか、賢さや知恵というのは、そういう意味で発揮されるべきではないのか。

実際に、人は人を必要としている。それは生存競争でも何でもない。
社会に生存競争があるにせよ、それは自然に生存競争があるという程度に過ぎない。

ベーシックインカムに多くの人が関心を寄せるのも、社会が生存競争ではなく、助け合いであり、そのためには価値や仕組みを変える必要があるのではないか?と感じているからだ。ただ個人的な価値観の場合、ポジティブな側面をどう計算するのか、そういうことに納得が行くかどうかだろう。人が人を必要とすることに、金は必要あるか。無い。ただ便宜的に金を使っているだけ。

シュタイナー学校では一部で、授業料を世帯の収入に合わせている。こういう事ができるのも、よくよく考えた末の行動だ。人が人を助けるために、金銭がないと助けられない、という本末転倒な事態になっては、全てが狂う。助けたいという気持ちが一番の根本、つまり人に必要とされる、という喜びみたいなものが、人間の原動力になるのでは。

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