最大の敵は己である、という真意

昔の人間は”星辰”という言葉で、自分の魂の機構が完全でないことを知り、その自然との戦いを”自己超越”と呼んだ。

己の中に自然がある

人間は統一体か―― 現在のスタンダードな見方として、「個人」「会社」「社会」とか言って、日常的に範疇を区別している。これがそもそも近代的な概念の弱さだと言って良い。

個人が、個性が、とか、そもそも個人が完結したもの、原子のように、独立しているものと考えていることが、人間を観察していない。

敵は外には居ない――という事が、経験上ハッキリしてくると、自分というのが、いかに脆い不安定な基盤の上に立っているか、わかる。

ヤコブ=ベーメはこの事をしきりに本に書いている。

中世における自分と4元素の戦い

そもそも中世キリスト教などでは、こういう内面が意識されていた。
人間とは魂の部分で、暴風雨にさらされており、それは外の自然と同様なものであり、星辰=アストラル体=感情の担い手は「精神=Geist霊」の絶えざる攻撃により弱体化している、という認識であった。

世の中にはポジティブな人、ネガティブな人、色々いるが、これこそ、「魂というのは不完全なもの」という認識を表している。

つまりここで言うと「自分の性格というのは、自分のせいではない」ということ。性格とは、固定化しているように思えるが、揺れ動く自然の一部であり、火・水・土・風という4元素に支配されたものである、ということ。

自分の中に外がある

自分の本質はどこにあるのか、これにまず答えなければならない。
自分と思っているもの、それに星辰が混ざっているのである。
これが前提。本質的な部分と星辰が混合していること。これがルシファーとか悪魔とか色々言われるが、自分の本質以外の影響にさらされており、そのことが曖昧になっているというストーリーなのだ。

自分であると思い込んでいることが、間違いで、自分の中に数々の有害な、健康や幸福を損なう、「自然」がある。つまり自分でないものが支配権を握り、自分らしさとか自分の衝動をコントロールしているわけだ。

ま、昔から”悪魔”と呼ばれてきただけの話で、心理学では無意識とか、呼びたいように呼べばよい。宗教はこの事が敏感だが、悪魔の道とか道にそれて廃れるとか、いくらでも例が挙げられる。

敵はどこにいるのか

この考え方から行くと、そもそも敵とは自分の中にいる。外の敵はそんなに問題ではないわけ。というよりも外に敵を想定するという事自体が、器量の狭い話で、自分でどうにかできる「敵」というのは、自分の中にいるでしょ、というだけの話だ。外の敵に意味があるのか、という話。

この事からすると、自分というのは、それほど信頼できるものではない、という考え方となる。そんなに信頼すると足場が崩壊するよってこと。人は自分は正しいと思いやすい。どうしてもそうなる。しかし周りの人間を見て、自分は正しいと思い込んでいる人ほど、如何に限界づけられているのか、すぐにわかるだろう。基盤が脆いのだ。

ここで「敵が外にある」と考えている人が被る損害を問題にしたい。常に敵が外にあると考えていると、自分は良い、敵が悪い、という論理に陥りやすい。しかし反対に考えて、「外に敵は居ない」と考えるほうが、どれだけ建設的かわからない。実生活において、外に敵を作りやすいのは問題であるように思われる。むしろ自分という管理下に置かれたように見えるものが、実は、間違い易い傾向にあるのではないか?と注意したほうがどれだけ益があるかわからないと考える。

何が問題なのか

社会の中で、ファインプレーを出し続ける人材であれば問題ない。立派である。ブッダの説いた八正道は、正しく物を見なさい、正しくありなさい、という黄金ルールだった。正しくあれば、それでOK。

古来から、何千年、何百年の昔から、同じような事が言われている。

でも、特に自己認識や道徳は、全然進歩していない。自分が正しいという人が山のようにいるこの世の中。だが常に自分の中に敵がいる、と宣言されていないのが、やっぱりオカシイ。

特にその事に対して、急にストイックになる必要があるのだろうか、否。

醍醐味というのは「観察」にあるように思える。自分自身を「えこひいき」するいわゆる「習慣」を、知らず知らずに皆おこなっているわけだ。

精神論が問題なのではない。構造の認識をどう取り扱うべきか。外に問題がある、自分の外部に問題がある、外向きに目を転じるこの傾向に、どう終止符が打てるのか。自分に問題があるなどと人は思いたくない。しかし残念ながら、山のように問題がある。問題は一様でない。

内なる自然の格闘が問題になっている。目標・理想・善・幸福など、想定によって、格闘するものもまた変わる。処方箋は魂によって異なる。魂もまた自然だから。つまり自分でそれを見出さなければ、だれもそれを取り除くことができない。

一般性というよりも、個別性の問題だ。こういう事の解決は、もっと包括的な基盤が必要になると思われる。

昔から天なる道、タオイズム、仏教、拝火教、旧約、新約、カバラ、神秘主義、同じことが目標となっている。自分の問題としてのみ、それを受容できるかどうか。他人の問題ではない。

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