使命感が意味するもの

精神団体と関わる経験があった。

ルドルフ・シュタイナーや岡田茂吉などの思想を研究すると、そういう人達と関わる機会がある。これは別の宗教や主義でも同じことだろう。

その経験を自分にフィードバックしてみよう。

使命感とは何か

客観的に言うと、何かを信じていて、その事に対して何かを貢献しよう、というものだろう。これは何々主義、例えば最近のVegan運動でもそうだけど、そういう主義の上に立つと、人より優れているとか、コレコレが良い、などと容易に信じてしまうものだ。

これを個人の人生との関係において捉えると、事情が変わる。世界を変えようとか、自分の人生で推し進めようなどと思ってしまうもの。

果たしてその行為というのは、どれほど個人的な文脈に沿っているのだろうか。そこに意味があるのだろうか。

何かが「確からしい」と思う事は人間よくあることだ。それが「良い」と思ってしまう。たしかに「良い」ことだろう。しかし物事にはやり方、程度、スタンスなど色々な要素があって、使命感というのが大きいと「行動」も変わる。

使命感から自由になる

自分がそうあらねばならない、と人は思い込みたがる。

しかし人間というものはそんなに隣の人と変わらない。

精神団体の人々を観察する時、病気のような、一種の熱病が感じられる。というのは、行動の根拠が何かしら一致していないように思われるのだ。人間において、行動の根拠が一致しないことは、不安定になるように自分には思われた。

内面と外面(性格)に「差」が発生する。また使命感とは行動原理なのだ、という酷い間違いも発生してくる。使命感とは自分を隠す「隠れ蓑」みたいに作用していないのだろうか。

弱みを強さで補強しようという、いわゆる誤魔化しだ。この点から言うと、使命感は単なる共感から逸脱し、己(自分)をコントロールしようとする。自己同一性を強化しようとする。それは間違っているのでは。

使命感は特に若き日は良いものであると、言いたい。しかし冷静に分析すると、若い時でも使命感というのは、誤魔化しに立脚している場合がある。それはまだ若さというものが、自己をあいまいにしているから、罪というものではない。だから、若い人なら許されるし、根拠もあるのだ。

しかし使命感というものが無いほうが、より素敵な人生が送れるのではないのか、という疑問が頭をもたげてくる。

無理が一番よくない

そもそも人間の行動範囲はどの程度か、そういうことも考えるべきだろう。せいぜい人間の行動範囲など知れている。そして人それぞれだ。

自由であるべきだし、それぞれが思う範囲でバランスを取らなければならない。それが社会。社会よりも使命感が先にあると、人生という文脈に合わなくなる。先走りすると現実的なものは動かないのではないか。

自分の立ち位置を識る

社会とは立ち位置を知るような所がある。需要があり、供給がある。
周囲から信頼され、自分も周囲の人を信頼する。そういう社会とは、概念的なものでもあるが、例え「身の回りの人間関係」とはいえ、人間というのは無限に社会から学べるもの。無限だ。

これは日本社会だけに限らない。西洋でも同じことで、もっと拡大すると、「世界という生き物」に相当する。その世界という生き物の中で、自分をメタモルフォーゼしていかなければならない。

確かに、同じ価値観の人達と何かを共有したいのはわかる。しかし現実的にはそうじゃない。全然違う人もいる。多様性の中で、結局は自分を高めていく、もしくは掘り下げていくしか、生活の中に意味はないのではないのか。

そしてそうして良いのだ。出会いは重要だ。しかし有機的な、運命的な文脈の中では、出会いというのは「自然」のようなもの。意味や無意味で当然違いが自ずからある。人間はタネのようなもので、環境に合わなければ、意味が乏しい。

使命感を疑え

自分の使命感というものがあったら、それがどの程度人生に意味があるのか、問うても良いだろう。ビジョンだ。そこには軌道修正が含まれている。軌道修正があるということは、使命感と人生や社会とに、何かしらの差が生まれているのは明らかだ。万が一、使命感が大きすぎる、と思ったら、それは溺死している人に等しい。

「場」こそ、使命が発揮される。使命は「場」が無いと発揮されえない。

そして「場」は自ずと明らかになるものではないのか。ただ、環境は、大切な土壌なのは言うまでもない。タネが生きるというのは、環境があってのことだ。

使命はもともと持っているもの

環境を良く識ること、環境から養分を吸い上げる植物を見習うと、使命感にこだわるというよりも、使命というものは元々持っていて、そこで十分に生きるというのが、種の使命ではなかろうか、とも感じる。

十分に環境に自分を注ぎ込んでいるか、自分を与えられているか、そういう見方ができれば、社会に地位を求めたり、訳のわからない望みを持つなどという、的外れなことは起きないのではないだろうか。非常にシンプルなことだが、おそらくシンプルが一番強い。

「場」は一時的なものである。そして「種」は使命そのもの。また逆も真で、環境が人を造るような部分も十分あるが、それは成長という範疇にある。自分は種であり、環境は場である。環境から日々の糧が得られる。

使命感における多様性

環境には多様性がある。使命感には多様性はあるのだろうか。

多産な使命感、というものがあるのなら、それは多様性を理解しているのは言えないのだろうか。

QR Code