最近考える岡田茂吉の名言①仕事観等

岡田茂吉は共産主義の終焉を予言し、資本主義の終焉を明言した。
この点から見て、興味深い人物だと思っている。

最近、その岡田茂吉の言葉がグサッと来る。

何故だかわからないので、とりあえず記録してみる。

(最近ユダヤ(旧約聖書)の『箴言』に打たれる。いつもはこうじゃない。)

 

非常に個人的にタイムリーな言葉だからピックアップした。そもそも、『生産的って何?』 という所からもじっくり考えられる。

非生産的なことを排除する消去法は、ここでは適当ではない。『自分が何をするか』だけが問題なのでね。目標も低くていいんじゃないか、と思う。高い目標を持て、なんて書いてない。正確に理解するってことは、自分の気持ち良いように理解する事とは異なる。

この言葉は命題のように受け取れるので面白いし、哲学的でもある。

これは特に同感する。しかし実際問題を取り扱う時には、かなり難しいと思うのだ。この岡田哲学っていうのが、どこでどう線引きするか、見てみたいものなんだけど、こういうのが現実の正解だろう、とは推測はできる。だけど「ただひとつ」という判断は①誰がする?②いつ?③会議で決めるには?④⑤⑥ナドナド、具体的に落とし込むまで、いくつかポイントがあっても良さそうだ。

これが馬鹿だとどうなるか。自分の方法が一番良いと信じるだけで、反省しない、という人を見かける。そもそも一番いい方法があるケースでは偶々できたとしても、私個人は、会社の中でそういう「ファインプレー」ができる人ってなかなか居ないと思うわけ。そんなに実務ではファインプレーができないのに、ある方法が良いか悪いかって、自分の方法が一番よいって信じるのがどれほど楽か、そしてその「楽」している姿にどれほど気が付いていないか。

これがスポーツや実務なら分かる。だけど経営とか人事とかになってきたり、分野が曖昧でしかも結果が正解だったかどうか、検証できない場合、一番良い方法って思い込むのが「オゴリ」なんだよなぁ、、と。

スポーツでも音楽でも実務でもどんな分野でも100点で、いつもその人は「ファインプレーができる」のなら、人事でも経営でもできるんだろうけど、馬鹿な人って地位とかで、自分が有能になったと思い込んでいる場合があるんだよね。

とにかく、急所があることはやはり理解できるものの、難しい問題に対して、「悩まない」とか、具体的「策」があると思うのだ。問題が自ずと解決するポイントや、自ずと解決する時期、そもそも問題を寝かせて熟成させるかどうか、色々な判断基準が必要だ。そこが面白い。

面白いんだけど、そういう岡田茂吉の哲学を、哲学しよう、分析しよう、なんて言う人が居なかった。それほど岡田茂吉を信望する人って「貧乏」だなぁと思う。岡田茂吉はあれほど貧乏反対なのに、その後継者ってどんだけ文化的に貧乏なの?ってw ま、いいや・・・

この辺が、達人の匂いがする所かな。とても面白いし新鮮。

箴言の部類かな。

これが一番効くかな。言いたい事はわかる。真剣な顔をする馬鹿ではなく、本当の意味で賢く、注意深く、自分の責任で考えている事。

人対人で考えていて、それがフェアって考えているのが分かる。部下にフェアで考えているってのは、言われた人は信頼するに決まっている。

結構自分は、無駄な努力をしない。無駄が嫌い。そもそも人生はどうしても無駄が多いのではないか、と思うのだ。だからこそ腰が重くなってしまう。無駄だらけの世の中で、逆に何が意味があるのか。

という風に自分は努力をして来なかったw そして馬鹿を見るのが、とても嫌いなのだ。でも自分は少なくとも無駄を無駄を認識している分、まともだと信じているのだが、消去法だから、ポジティブでない。腰が重い。

人間が賢ければ、自分のネガティブさを容易に克服できると思うのだが、イマイチ『これ、無駄だよね』という声がどんどん聞こえてくるw

才能があるとかないとか以前の話。努力するとして、何にどれだけ努力するか、努力とはそもそも熱中とどう違うのか。努力って何?みたいな部分がどうしても腑に落ちないんだよね。筋が通ってこそ、努力がその上を走るわけだから、悪にも努力があるわけで。

ちなみに僕は日本人の「がんばれ」は、かなり疑問視してきました。

何かアホだと思う。弊害が多い気がする。社会害というのだろうか。

岡田茂吉は自然から学ぶと言っている

なんというか、それは結構正しいと思うわけ。

自然は無数のタネを放出し、一部が成長し、他方は成長しない。

この事からだけでもどれほど多くの事が学べるかわからない。

しかし、岡田茂吉を信奉している人、マジで無能なの?と思うんです。岡田茂吉が死んで何十年。何を学びましたか?って聞かれると思います。プアなんですね。気が狂っている。文化の香りがしない。

岡田茂吉が「宗教」っていう段階で、興味なくなる人もいるのだし、そういうのは損していると思う。そもそも日本人は「宗教」がわかんない。宗教を遍歴しているおかしな人はともかく、岡田茂吉だけ宗教している人だと、それもかなりオカシイ。岡田茂吉の宗教は、そもそも欧米も視野に入れているわけだから、色々な宗教を知らないと逆に教養的に傾くんじゃないかな。岡田茂吉自身は文化や宗教を重視しているわけだから、全人的に他の色々な宗教を知らず、岡田茂吉だけを宗教するって、そもそも岡田茂吉の言動に矛盾しているよね。

人生の時間は限られている。それは分る。R.シュタイナーも言っているけど、信者と教祖の関係、苦労して編み出した人とそれを信じる人の関係、は全然違うってのは、岡田茂吉の信奉者は分っているのかな?

それは自分自身もよく分かっている。達人の言葉を信じてしまうと、それを分かった気になるw すると自分も事情通になったと思い込む。しかし自分で苦労して獲ってきた知恵じゃない。だから薄っぺらになる。

大抵はそういう事は大きな弊害にはならない。だけれども、信奉者っていうのは、突き詰めるとどうしてもボロが出て来る。だから宗教でお勉強して魂で精進してね、ってことだとは思うけどね。死ぬまでね。

例えば今読んでいる聖書の「箴言」とか、賢いなぁ、とため息が出る。

何というか人生とか真理とかってのは、多面的なんだよね。それって面白いことだと思うわけ。一旦上った山も、違う山道からも行ける。岡田茂吉なら岡田茂吉が「真理」を述べたなら、そういうのって聖書からでも数学からでもどこの角度からでも「やっぱり真理なんだね」って、そういう風に考えられないと、とてもプアだと思う。

①岡田茂吉さんのツアーで山頂まで行きました。②岡田茂吉の山頂から降りたくありません。だって真理だから。③この山は絶対真理です④他のツアーなんかなかったです。この道が真理です。  みたいなw

たしかに岡田茂吉やシュタイナーって、知らない人からすると、「ほんとにこの人頭大丈夫?」っていう部分あると思います。それってでもどうでも良い話で、山があること自体は変わらない。色々なガイドが居て、登るのは自分なんだからw ある意味、賢者がいることはとても効率的だし、山頂から撮ってきた風景を体感できるって幸せだよね。

でも本当に自分は山頂にいるのかって言うと、そうじゃないわけw 錯覚というか、「登り方が分かった」つまり「人生や真理に到達する方法が朧気にわかる」という程度のもの。朧気にしかわからない。だって「体験していない」んだものw

たしかに登り方を実践するってのが、修行だから、大事。

それは他の思想も同じこと。思想と指導の違いがそこから発生する。

確かに、指導に従うってのは、効果的だよね。。フィロソフィーが実践となると大きく活動が変わる。でもフィロソフィーは実践ではない。

フィロソフィーってのは生み出された仕組みそのものを鑑賞し、それを身につけよう、とか、科学する、探求することの部類だと思う。

実践というのは意図があり、効果がある。それは具体的なものだ。

この記事で名言を引用したり、箴言を受け止めるってのは、その奥義を探求すること。箴言が出て来る背景には知恵がある。真理がある。

ぶら下がる人間は会話が少ない

精神団体ってプアだと思うのは、その指導者の金言をアレコレ共有できない。議論っていうのかな。これも上記の理屈と同じで、自分の言葉、自分の苦労じゃないから、お勉強しようというのではなく、信じちゃう。

しかも金言がゴールになっている。そしてそれがわかっている自分達は幸せだ、みたいな。もしくは質(たち)が悪いのは、それを共有するものの団結心とか安心感ね。実に下らない。何そのゴール?

自分の人生を生きているんだろうか?人生というのは実にさまざまな観点から、ほとんど無限に観察できるし、得られるものもまた実に様々。だから正解などまったくない。いや、無限に正解が見出せる。

しかし各人がそれぞれの仕方で出す解答ってのが、面白いってのが分からないのかな。これが宗教臭く、内輪臭くなるほど、退屈なものはない。生きるって体験なんだから、どれほどの知性が入っているか。むしろ面白いのはそういうところ。個性に伴った解答に成長がある。

考えてみても、ある困難に対して、それぞれで対応が異なる事が人間観察を通して明らか。で、そこから引き出す経験や知恵ってのが、色々なフィロソフィーに基づいているかどうかって、結構重要でないかい?って思う。人そのもの。人間改造事業で出てきた人間が、どう改造されたか。チープなものだったら、やっぱり駄目だったね、みたいになる。

どこまでも人間に基づいていながらも、他者理解が卓越する、というようでないと、精神団体の意味そのものがない、という気がするんだよね。まして他の宗教や思想とすぐにケンカしたり心を開かないってのは、その時点でアウトだと思うわけ。だってまず愛がないから。人間理解が一通りすすんだら、やっぱり違う立場の人間を理解しようと、どうしても心が動くわけ。西洋でも日本でも年齢が進むと柔軟性がなくなって、それは思想の問題ではない。個人のキャパの問題もある。

自分が何に所属しているか、って看板、止めた方がいい。本当はそう信じているだけのことで、看板は自分を安心させるための幻想だよね。

岡田茂吉などに思うことを書きすぎてしまった。。本当はもっと名言に迫りたかったけど、そういう力量がない。名言に撃たれるっていうのは、共感しつつ、悩むことがある状態だから。(箴言のほうは、つくづく賢いと思うが、ちょっと性質が違う。)

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