シュタイナー@安冨歩

最近、経済視点で安冨歩という東大教授に興味を持ったのだが、これまた偶然に彼の講義の中で「シュタイナー」という名前が出てきたので、後段に紹介する。

この方は、親鸞とか論語などの本もお書きになっているとおり、経済のみならず、ベースに筋というものが存在しており、人間に深みがあるのだろう。私はYoutubeしか見ていないのだけれど、それでも充分に面白い。色々探したら以下の高知大学の講義が公開されていた。

その前にこの人、最近?女装しているw とても面白い。

そういう人じゃないと、なんか面白くないよね。多面性っていうのかな。シュタイナー系の知り合いに女装してる人がいるけど、その人も東大を出てる。チャンネルが繊細で高いんだろう。この人の根本にガンジーがあるんだろうけど、元々が魂が高い人なんだろうと思う。宿命だね。

この見始めた講義でいきなり『ルドルフ・シュタイナー』の名前が挙がって、何か運命的なものを感じましたw 僕の20年以上のテーマですw

確かに「シュタイナー」わけわからんものだと思いますけどね。というか、本質は元々そういう所にはやっぱり「無い」んですけど。(後段)

この講義でウィトゲンシュタインの話はわかりやすかったし、神秘と論理の線引きもやっぱり面白くて、シュタイナーなんかこの文脈では関係ないんだけどね。でも名前が出てきたのはやっぱり面白い。

シュタイナーがよく分かる人物からも、安冨さんの立場はよく分かるだろう。

シュタイナーは学問として、霊領域=「神秘」領域の報告をした。

霊領域に触れないのは、普通だよね。分かる。霊っていうのはゼロなんだから、見えない。

安冨歩氏がこのブログに降臨 ((;゚Д゚));

ここまでの書きかけの本記事を日曜日だからという理由で公開したところ、Twitterから安冨さんご自身がこのブログにご降臨された・・・。

だからではないですが思い切って書きます。本当に思っていることを。

まずざっくりと

まず、女装するって事。コレね、勇気がないとできないと思いますよ。
哲学って、有言実行ってなかなか無いと思うんです。でもね、実行するクセ、つまり「表裏がない」ことは、哲学者にとても大事なことだと思う。

僕自身は女装とかは関心が無いんだけど、「勇気」というトピックはとても重要だと思っています。まず恋愛とか一番わかりやすいと思うけど、若いうちに「勇気」を意識したり集中的に体験するのは、とても良いことだと思うんです。勇気にコダワリを持てること。そういう人って強いっていうか、人生面で2倍とか豊かだと思うんです。アホっぽい蛮勇ではなくて、本当に正しいことを素直に気取らずに発言できることとかね。「勇気」が人生を2倍豊かにするって、聞いた事ないけど、そう思います。

恋愛では勇気から恩恵を受けるけど、社会生活だとこれが面白い対比になる。同僚とかから浮いてしまうんですよね。正しいと思うことをちゃんとやろうとすると、どうしても日本では浮いてしまうんじゃないかな。

西洋ではそうではない。勇気があるというよりも、西洋では素直・ストレートが社会生活の信用の基盤だから、思ったことを口にして言っても良い。日本だとそういう信用の仕方ではないので、正直に自分の感想を述べる事自体が、勇気が必要なことになってしまう。日本がややこしいのだ。僕は日本のやり方が良いとは1mmとも思わない。隠ぺいするので、気持ちが悪いのだ。この辺はまさに安冨さんのいう通り。日本人はヤバい人が多い。9割がヤバいかも?(職場や環境で変わるけど)

日本(人)はこの意味で職場や社会生活も気持ちが良くない。
ストレートだから、お互いの気持ちが分かるっていうのが、やっぱ気持ちの良い人間関係じゃないかな。宮崎駿アニメがウケるのも、やっぱ人間関係が素直というか、裏表がない所かもしれない。家族にも友人にもストレートでない人がいるとすると、誰に心を開くというのだろう。。西洋人はそういう風じゃない。ざっくりだし、その分シンプルなので裏を読んだりはあまりしない。

例えば、昨日土曜日にフランクフルトのマルクトへ行って、楽しみにしていた牡蠣バーに寄ったら、「何故かタダ」にしてくれた。(トルコ人かイタリア人か判らない店員)。日本だとありえないでしょ。バーの店員の気分が良かったのか、日本人が好きなのか、それとも貧乏に見えたのか、時間も無かったため理由はわからないが、その時に安冨氏が言った「交換or相互贈与」をモロに思い出した。

当然「交換」と思っていたものが、「贈与」になる事実をまざまざと見る。
理屈がいきなり通らなくなり、自分としてはかなり鮮明だった。(若い時は旅行でそういう事はあっても、ここ15年はそういう事は記憶にない)

① 安冨氏から学ぶこと

まず最近悩んでいることに、ブログとかFBとかTWとか、匿名にするか実名にするか、ということがある。このブログはずっと実名だったが、ある時点から職場などに身元が割れてしまうと都合が悪いので、匿名にしました。

元々のブログのコンセプトは、「過去は戻って来る」つまり、”ぶっちゃけ”現実の人生で出会う人は来世で出会うことになると考えているわけです。で、自分を知ってもらうツールとしてブログを作りました。名刺です。

もし2回出会うとすると、現世で良い作用(いい思い出の共有やカルマの形成)をすれば、来世でもより力強い関係になるのだから、結論としては「2度おいしい」ですよね?っていう話です。だったら最初から来世のために「有益にこの世で出会いましょう」ということなんです。

しかし実名にすると情報が結構洩れちゃう。結構好き放題言っているので、安冨流『立場』(!!)が未来的にも怪しくなる。実生活上で。今気が付いたんですが僕も「立場」主義者なわけです。将来的に都合が悪くなりたくない。でも今後の世の中の流れってのは、「信用経済」というか、「実名がベースになる」と思っています。しかし言論にブレーキがかかるのは確かなんですよね、実名だと。私は極論で考えるのが好きで、会議の時でも、たとえ話に極論を用いたりします。しかし議事録では、「○○さんはこう言った」と書かれるけど、”仮に”と言っているのに、その部分を落とされると、すぐに狂人になってしまいます。

実名でSNSする必要は無い。しかしSNSというのも現実なのだから、何かもったいないというか、SNSやブログも自分自身の一部なんですね。なんかこう、表現の場としては、実名にしたい、と。FBもこの間アカウントを消しました。新しく実名でやり直そうと。ここはドイツですから、ちゃんと公開投稿して、人に信用してもらって繋がろう、みたいな。FBって僕は馬鹿にしてたんですが、意外と(ヨーロッパでは)コミュニケーションツールなのが分かってきて、悪いものでもないなぁ、みたいな。

でも反面「自分って誰」? と思うわけです。

どう思われたいのか、どういうキャラなのか、ゆくゆくどういう方向性で行くのか。あまり決まっていない。まず痛いのは自分には夢がない。

30代の頃、人に夢の大切さを説いたりした自分が、ある事件から夢が無くなっていきました。これも不思議なことでした。

つまり何というか自信というか、首尾一貫性がないわけです。私的には首尾一貫性がないことは、信用がない、という位に痛手です。経験は充実してもやりたいことがない。「なんとかなるだろw」みたいな感じです。

でもこの態度を変えようと思います。女装した安冨氏を見ていると、何か自分のほうが首尾一貫していない気がして、行動を起こさざるを得ない。それは「立場を破る」勇気です。将来に都合が悪くなることを懸念するのをやめる。

FBやTWやブログを実名化するっていうのもどうでもいいことで、「立場」を考え出すと「社会的保身」っていうのがチラつくっていうのが、気持ちが悪いです。ただし不要な情報は出すべきじゃないですよね。文字通り悪用したり、そこに付けこむ人もいる。それは確かです。

以上が今思いつく、安冨氏から受ける自分なりの印象です。

実はこれだけではありません。まだ高知大学の1日目しか見ていませんが、先と後の感覚論は、自分にも思い当たる所がある。過去と未来というテーマはこのブログでも主題です。

安冨氏が何を立場ismの先に見ているのかまだ分かりませんが、大きい気がします。そして経済学者としての安冨氏の感覚論には、何かあるような気がします。

安冨氏(や知識人)と日本

安冨氏の立場論はモロに「日本」に当てはまります。ドストライク。

日本を解剖しています。海外で日本人を見るとすごく良く分かる。

でも安冨氏の経済論は日本だけの問題じゃない。根本的なことです。
職業や経済のあり方って、今後、すごく大事で変わって行くと思います。

何が新しいスタンダードになるか、それはその人の価値観の問題ですが、スタンダードを作れば、それが価値観になる。その時、どういうスタンダードを採用するかって、力量が問われると思うんです。哲学が。

で、思うのがユダヤの問題です。ユダヤ問題ってドイツに居ると結構気になります。ドイツ人ともユダヤの話が出ます。でも実際は公けでする話になりにくいんです。ドイツ全土にユダヤ人が普通に暮らしている。

ユダヤ人は賢いですね。普通に抜け目ないように思います。そんなに素直じゃないように思う。民族的なことをやはり何らかの形で考えているんです。色々なユダヤ人がいる。仲良くもできるし知的な感性を持つ人も沢山いる。普通の友人としても全く問題ない。でも彼らは歴史があって、何かが複雑なんです。民族的な何かが。

これがドイツ人とかイタリア人の場合、もっと素直です。民族的なものが。Viva Italia! とか言って、サッカーで買ったら大騒ぎするのなんかとても素直な民族主義で、健康だと思います。そこそこ楽しいもんです。

ユダヤのネットワークは結構馬鹿にできません。何かフェアじゃないんですよね。イタリア語を話せるからイタリア人大家さんが気に入ってアパート契約してくれる、なんて住宅不足のスイスではあります。そういう見えるようなえこひいきの問題ではなくて、ユダヤ人というのは、分かりにくい形でネットワークを作るんだと感じています。(経験の範囲では)
僕はマスコミのプロパガンダっていうのは、ユダヤ人ならかなり上手にやるだろうと思います。学術界・美術界でさえ、彼らの誇張が入っていると最近は思っています。

そして日本ではたぶん教えられていないが、近世でユダヤ人がイギリス貴族と融合して、イギリスで力を形成し、スイスを開発したとか、ユダヤの社会システムはドイツでは弁護士や保険というスキマ産業を生み出し、医師として社会の上部を独占し、果てには銀行家が君主国家を破壊した、という西洋の歴史を肌で感じると、「経済」ってそもそもユダヤありきで成立しているけど、健全な経済哲学ってそうじゃないから、ユダヤ抜きで考えて、どこまで正論的な健康な経済哲学が考えられるのかって、大きいと思うんです。

ちなみに日本人がユダヤ人を理解しなきゃならない、って思います。

というのはドイツは弱っています。もう民族を結集できる形ではありません。トルコからなどの移民も多く入り込んで、ユダヤ人も多い。そんなところで真剣にユダヤ人問題を検討すれば、健康な意志があっても、人種差別だと捉えられかねない。だからもうドイツ人がいくら賢くたって、ユダヤ人の問題は討議できないようになっています。これは本当に痛いところです。たぶんドイツの弱点というものを、ユダヤ人というのは凄く分かっている。ドイツ人は結構優秀だからこそ、そうなっちゃった。

知りませんが、アメリカでもイギリスでも余計に、ユダヤ人問題は露呈しないでしょう。それこそタブーの領域です。でも日本人ならできそう。だって関係ないですもんw 欧州に直接的な利害関係がないですから。しかしユダヤ人がどういう人か、実際に生態的に知らないとやっぱりわからない。ロックフェラーだとかああだこうだ、言った所で、彼らの賢さを身近にわからないとどうも何が問題なのか、リアリティーが欠けるような気がします。

ユダヤ教が見えない神を得意としたように、ユダヤ人が見えない行動をするのがどっかにある。見えないものに対して、何かを心得ている感があります。(単に友人として接していたのに、後から考えるとユダヤ寄りに話を持って行かれたという私的経験などもあって、何か素直じゃない面がある。) 見えないものが得意なユダヤ人。ステルス性をよく心得ている。一体これって何なの? 19世紀には多くのドイツ人がそういう事に気づいた。ショーペンハウアーやワグナー。だが事態は解決できなかった。

ガンというのは健康な体に巣くい。人間を死滅させる。ユダヤ民族というのはそういったものなのか。なぜ自分の国を持たないのか。勿論持てないというのが本当だろうけど、どう考えても気持ちが悪い。日本のような単一民族に”見える”国からすると、どうしても理解がしがたい。

そもそも他民族の中で生きるというのは、相当、骨が折れる。だったらなぜそういう生き方を選ぶのか。選ばざるをえないのか。結束しないと虐げられてしまう、というのも本音だろう。どうしても生存競争が厳しいから。

長くなったけど、安冨氏の経済感覚というのは、日本だけの問題ではない。そこが何かもったいない。しかし彼のツイッターもそして他の海外在住知的な日本人のツイッターも、「日本まみれ」になっている。

たしかに日本にいると、クソメディアの影響・クソ政治の影響で、どうでも良いニュースにまみれてしまう。でもアベ内閣とか、本当はどうでもよいというか、日本はトルコのようなもんだから、あまり深く関わっていると意味ないんじゃないか、とも思うんです。(マクロでは全然意味ない。ミクロでは意味がある。)

安冨氏の分析って日本で物凄くスタンダードになるべきだとは思うけど、日本っていう狭さがむしろ問題で、日本のスペシャリスト(安冨さん)が日本を自浄してるんだけど、問題の日本がこれまた狭い。多様性がないように映ってしまう。だからヴィトゲンシュタインとかラッセルの話は凄く魅力的に思えてしまう。というのは人類の話だから。日本の話じゃない。

あえてユダヤ人の問題をブッ込んだのも、そもそも今日の社会構造が価値体系も含めて、一体どこらへんまで「自然・健全」に戻れるのか、僕自身が良く分からないからです。言ってみれば、今は価値体系がまだ20世紀の状態であって、それも間違いだらけ。スキマ産業は一応これで良いとしても、個人の尺度はどの程度健全に戻れるのか、興味があります。(病人がいなければ医者は要らない。健康な状態に戻すのが医者の務めであり、薬依存にしてしまうのはスキマ産業の在り方。)

最後にシュタイナーについて

シュタイナー、ハッキリ言ってわけわからない、ってすごく正常な感覚だと思う。そもそも神智学なんて仏教の何々天と同じように、普通の人からすると「知る必要ありますか?」のレベルだと思う。

知る必要、ないと思う。神秘について、語る必要は普通の人は無い。

でも何というか、知りたいって思う人が居るから、宗教も概念化したわけだし、宮崎アニメの紅のブタの天国シーンなんかずっと前にみたけど、やっぱり神秘っていうものに対して、人間は惹かれるんじゃないかな。

で、シュタイナーは元々哲学とか学問から出た人だから、ゲーテ研究者になったんだけど、霊的な素養があった。これって仕方のないことじゃないかな、と。霊的な人って少し位は日常生活の中でもいると思う。自分の知り合いの範囲でね。淀川長治(サヨナラ・サヨナラ・サヨナラのオジサン)なんて、面白い人で、そういうのを「電気が走る」って言った。

そういうのが「霊能」と言われるわけだけど、じゃあ、自分の友人で少し霊的な人が居た時に、その人が気が狂っているか、というとそうではないと思うよね。少なくとも「幻想を観る精神病」かな?とか、思わないw

霊感は昔から霊感。まぁ、世の中にはそういう霊能がある人が居る、というのを認める場合、それはそもそも何なのか、疑問が沸く。

シュタイナーの講演を読むと科学的に書かれている。叙述されている。しかし対象そのものは「エーテル体」だったり、要はわけのわからないものだ。方法は科学的に叙述されていて、整合性も取れると思われるけど、対象は誰しもが探求できない。だからわけがわからない。

僕にもわけがわからないw

しかし実際にシュタイナーの研究基盤で、薬が作られている。

農業もその当時から実践され、現在のドイツのBIOを形成できた。日本の低レベルな市場性から言うと、ドイツのBIOマーケットは物凄く大きい。シュタイナーが居なかったら、ドイツのBIO産業はこんなに成長していない。それはドイツに大きな影響を与えており、支持層の獲得に成功したから。

ゲーテの階層的な認識論をハイゼンベルクがたしか取り上げたけど、形而下と形而上の問題っていうのは、別に今始まった問題ではない。

形而上の学問ってのはある。シュタイナーもそれでいいんじゃなかな、と。形而上という名前なのかオカルトという名前なのか、そんなに違いがない。そしてそれを確認できるかというと、「?」。

シュタイナーが発表した「万人が霊視認識に努力することができる」という立場は、衝撃が大きい。でもそれは理論としての話。実際に、10年前のドルナッハ(人智学総本山)において、霊視できると言われた人物で、人智学的に認められていたのは数人も居ないと思う。僕はオカルト・スピリチャルにはあまり興味ないけど、江原さんとか、何十人も居ないレベルだろうし、そういった人はそもそも西洋でもそんなに居ないのではないのか。。

そういう事も仕方ない事だと思う。ただシュタイナーがゲーテを再評価できたのは大きいことで、ゲーテの色彩論をシュタイナーは100万マルクあれば証明できるんじゃないか、と言っていたのは確かにその通りだと思う。ニュートン光学はインチキなのが、ゲーテ色彩論を研究すればすぐに判る。でも問題は金じゃない。たしかに研究は必要だろうけど、方向とかアイディアの問題なのでは、と。

僕は最近はアントロポゾフィーとかシュタイナーの本質というのは、神智学には無いように思う。そんなのどうでも良くて、おそらくなんだけど、シュタイナーの講義力にあると思う。つまり最近出版された文庫本の「ニーチェ みずからの時代と闘う者」を読むと、シュタイナーの能力というのは、まだその当時は力が無かったことが分る。

ニーチェを愛する人がこの本を読んだ時、特には衝撃は受けない。おそらくだけどマイケルジャクソンを安冨氏が解説したほうが衝撃だと思う。

シュタイナー系関係者から過大評価を受ける「自由の哲学」も、たしかに意味は深いけど、霊的な「思考」という要素を彼なりに文体として表現したという事実だけであって、彼の後年の講義とはかけ離れている。

つまりシュタイナーの成熟が、果実そのもの。エーテル体とかその他の概念は、カバラが正しいように正しいだけのことで、一般人には他の科学概念とさしたる変わりがない、というように思われる。仏教も詳しくないけど、仏教概念をどうこう言う人ってあんまりない。だって半ばどうでもよいし、生活にそんなに影響ないから。

でも安冨氏の言う通り、合理性というのは必要なのは明らか。
僕もエーテル体がどうこうとか太古の事とか知らんし。それを検証するかどうかは別問題のような気がするので、今更仏教を検証しようとかと同じレベルの問題だと思われる。解釈的なことで、解釈という過程は色々あるだろうけど、結論とか推論は別な所にあるので、それを受容したり、それを疑問として持つということが人智学的な捉え方なのではないのかな、と。

霊的な修行が一般的に公開されるべき、とか、グルが生徒に教えるのも近代的な学問の教師と生徒の関係であるべき、とかシュタイナーが言ったのも、そもそも学問の対象としては成立しにくいが、理想としてはそうあるべき、みたいなことで、全然形而下の学問ではない。

神秘が直接分かるっていうのは、普通じゃありえない。

でも僕の祖母が祖父の夢枕に立ったりした話を聞くと、源氏物語が本当だったり、何か神秘があってもおかしくないし、淀川長治が面白おかしく「電気」のことを話すのを思い出すと、ふーん、面白いね、と思える。

そういう所まで学問的に規定しようとしたシュタイナーは、こう考えるにスゲーところを突っ走った人で、むしろ彼の個人的な環境に置き換えた故にそういうものができてしまったようなw もしスウェーデンボルグみたいに語ったのなら、今とは全然ちがったものが出来ていて、農業や医学薬学、教育にも発展しなかったのでしょう。。そういう意味ではアリと言えばアリなのだろう、と。

神智学的なシュタイナーのああいう表現方法って、いわば土台の部分で、それ抜きには次の話ができない、むしろ次の話をしたいために、土台を引用しているように思う。とりあえず整備しないと話が通じない。アメリカでも心霊主義ってあったけど、ちゃんと学問的にやろうよって言ったのは、結局はシュタイナーだけではないか・・な?ま、神秘は学問ではないにせよ、骨格がない気持ち悪さは止めましょう、霊科学も首尾一貫するはずだから、客観的にドイツ的にやりましょう、っていうやり方だったのでは。でなきゃ、聖人と弟子の対話録か、一般人への回答集しか、スピリチャルには残らないような気もする。当時からイギリスでも日本でもずいぶん降霊術とかあったけど、ああいう風にはならないような学術的な体裁をとった、という所に成果というか結果があって、今でも僕は、スピリチャルは尊敬するんだけど、イマイチ納得がいかないのも、基盤があるかないかって大きいんじゃないかな、と。

シュタイナーから得られるもの

例えば僕は主義という言葉は好きじゃない”主義”で、要は看板を掲げて行動するのに違和感があった。だから人智学とかほかの例えば日本霊学で言う大本とか岡田茂吉とかも、カチカチの頭の人、主義が匂う人を笑う傾向にあった。普通が一番良い。だからシュタイナーでさえ、やっぱ普通の感性がないと、あんま意味ないんじゃないかなー、と思う。

要するに、中身の問題で、日本ではこういうのがあって、西洋ではこういうのがある、となると、当然共通する部分がある。違いが問題というよりは、同じ部分が問題というか、物理学・光学で言う減法混色ではなく加法混色、減点法ではなく加点法、という風じゃないと気持ちが悪い。

そうじゃないとやりにくい。会議でもそうで、差分をどうこう言ったところで、建設的な議論ができない。まずはどういう部分で共通認識があるのか、確認したほうが良い。でも世間の人ってすぐに目くじらを立てて違いに目を向ける。その違いを勿体ぶるんだけど、それは大局に立てない。

話過ぎたけど、つまりあんまり拘らずに染まらずにやったほうが良いという話で、シュタイナーが良いとか、シルバーバーチが良いとか言ってるのは、非生産的ではないか、と。つまりどれも偉大であり、親鸞でも老子でも少なくとも自分より?偉いですよね。最初は比較研究すれば矛盾に目が向くけど、細かい矛盾が気にならないようになるのが、本来の大道であって、そういう意味でシュタイナーから何を感じるかというと、やっぱり世界観とか霊性に尽きます。理論そのものではなく、理論が表現するものが大事で、本を読むのにアルファベットが大事ではなく、アルファベットが表現するものに価値がある、という感じです。それが世界観であり、霊性なんだろうな、と。「ワールド」です。で、それが優れているとかではなく、むしろ養分に過ぎない。つまり魂の栄養とか呼吸に過ぎず、それは「シュタイナーの味」という風に表現できるんじゃないか。人によってはマズいしw それでいいんじゃないの? みたいな。

もし人が霊界で生きるのなら、一体今この生きている世界はそっから見た時に、どうなっているのか。そういう事を考えた時、意外とこの世でもあの世でも魂の在り方は同じで、特に私淑するものも同じであって、シュタイナーに私淑するというのは、霊界でもそういう魂の傾向のグループに入る、と僕は勝手に思っています。つまり好きだからです。たしかゲーテも同じことを言ってます。(エンテレケイア(霊子)は親密なものが集まる、というような。)

それは別に親鸞でも老子でもキリストでも、個人によって差があるんだし、同じ私淑である必要がない。それで気持ちよい何かを得ている。その養分というのが、『道徳』とか真・善・美である、ということです。それがシュタイナー味なのか、空海味なのか味わい方が全然違うだろうけど、自分の方法を勝手に身につけているわけだし、それが自然。

そういうと怒る人がいるかもしれない。でも、お前ら何したいわけ?というと返事が曖昧になる。善に向かう人であれば、だいたい共通の感性がある。それでいいんじゃないのかと。そっちに向かっていれば、それでいいでしょ的なもの。アントロポゾフィーもやり方がクローズアップされ過ぎて、方法論的な差異が目に付くものばかりを言われる。でも別に大した違いがあるかというと、特に実際の人間を見ればわかる。悪いけど今の時代の人間で、どの宗教もどの精神団体も、たかが知れているのだと。そんなに大きく変わりはしない。悪く言えばレベルもマチマチだし、悪い方向に大きく洗脳されでもしない限り、普通なのが一番良いよねっていうだけのこと。

でも個人の感性っていうのは宗教やイデオロギーどうこうではなく、(幼児からの教育も含めた)環境などの影響の方が大きいのではないか?と思えるし、それをカルマと呼ぶのか、教育と呼ぶのか、それとも人智学の影響を汲み取ると呼ぶのか、結局は感性に還元されると思う。最近ユダヤ教なども立派と思うし、感性があれば他の教義であっても、苛酷というほど難しくないような気もする。

霊的な「ワールド」の私淑というのは、魂の栄養のようなものなので、味がおいしい。シュタイナー味の場合も、色々なポイントは存在していると思う。だが、様々なポイントですら、個人個人で全く意見が異なるように思える。

自分は、人智学に箴言を感じられる部分があるように思います。例えば。で、ゲーテが表現したLeitfaden(導きの糸)は、思考から思考へ、紡がれる。同じように人智学を勝手に魂に持ち込んだ人は、特有のLeitfadenがあって、僕の場合は少し前は「神殿伝説と黄金伝説」のようなシュタイナーの奥義的予言的なものでしたが、言ってみれば自由であり、決まりなどない。

言ってみれば過去にシュタイナー関心を持った人でも、現在に持った人でも、同じ内容を魂に受け止めるのですから、事実自体に意味がある。いつか岡田茂吉の団体の指導者格の人に、色々シュタイナー系の事を聞かれたことがあるけど、やっぱり日本の精神的グループの人だって、シュタイナーの本を読んで考える所がある。その時、シュタイナーから受け取った印象を魂で消化しています。それでいいと思う。何かのテーマを考えるっていうだけの話。

例えば「意識魂」というのは、最近聞かれる「個性」と同意。1500年以前は悟性魂というニーチェ風に言うと「汝なすべし」だった。だいたい良い子ぶる人は悟性的であり、教義や規範を重視する。意識魂というのは個性が中心にあって教義や規範よりも自分の意志に価値を見出す。今はどんどん意識魂が進み、そのうち兄弟や親子間で、理解できない時代が来る、とシュタイナーは述べている。昔と較べての話。そういうテーマから何を学ぶのか、どう意識するのかというのが人智学ではないか。

人智学というのは、ほとんど進化していない。だから100年の古さであり、時代遅れの部分というか、今は明らかな事実が沢山あるから、「感性」次第では人智学を「より現実的に使用する」ことがおそらく可能だろう。現実を見る時のツールであり、人智学は自分を『時代の監視者』と名付けている。第二次世界大戦は止められなかったから、そんなに力のある監視者ではないかもしれないが、少なくとも「ツール」には違いない。

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