「労働信仰」とは何か。続:ニート賞賛。

ニート賞賛。ニートの経済効果』という記事を書いたが、ウケが良い。

そもそもは「ニートという態度は社会のひずみの一形態であり、ある角度から見るとそれは賞賛的に思える」という極論だった。ベーシックインカム論や社会考察から考えて、以下のツィートを取り上げた:
href=”https://twitter.com/liberta_ana/status/647381757507993600
モノが増えた世の中で、これ以上働く必要が意味があるの?っていう、「100インチで16Kのテレビ」を生産する世の中を批判しました。が、それはとっくにドイツ哲学者ショーペンハウアーの『無駄に作られる娯楽品のために、奴隷まで働かせている』という指摘と同じことです。

本題の「労働信仰」について

「労働信仰」でググると、このページが先頭で出てきますが、気持ちはわかります。例えば僕の話を書く。僕は就業時間のチャイムが鳴ると『一番先に帰ります』。
そうすることが楽しいのです。労働信仰者が妬んだりすることが、逆に面白い。また別の例だと、職場であまり女子と仲良くしない職場であれば、凄く可愛い女性社員などと、昼時間グループを組んで楽しみます。 「自分ができないことをされる」のが嫌なら『自分もすればいいじゃん』と思うのです。集団真理から「労働信仰」を語る時、レベルがどうしても低くなります。だって卑怯者、勇気のない者に話の基準を合わせているからです。だから「労働信仰」の話は、見下して話されるべきです。
むしろ労働信仰者がいないと、そういうことを楽しめないかもしれない。
で、労働信仰の話が低レベルに堕ちないよう注意してすすめます。

スイスで10年前にニートだった友人が

スイスに10年ぶりに戻ってきて、ニートだった友人(親友?会うと仲が良いし、僕はあまり友達を作らない)に、久しぶりに連絡をとりました。
ドイツ人って日本のニートっぽくない、というか人にもよるんですが、あんまりジメジメしたイメージはないんです。結構ヨーロッパは失業してる人が多い。全然暗いイメージがないんですが、でも自覚としてはやはり「働かなきゃなー」っていうのは皆、持っています。

ま、ともかく10年ぶりに会った友人は、なんと「まだニート」でした(爆)

当然驚きました。が、なんて言うのでしょう、むしろ微笑ましかったw

10年間ずっとニートではなかったのは知ってますが、大部分がそうだったのでしょう。私に「照れ笑い」していましたw 10年たっても「やはり彼」という意味で安心するし、むしろ悪い意味で性格が変わってたら怖い。

「労働信仰」の話をなぜしたのか

まず日本人の同僚から、「日本の労働信仰」について問題視する話をされたからです。在欧の企業でも日本人ベースだと、結局日本から抜け切れず、現地採用の人との温度感があります。

その時、僕はキリストのローマ金貨の話をしました。キリストは「金貨は発行者のものだ」という喩えを用いて、『人間の本質は金ではない』ということを暗示しています。そして僕が思うに『労働の本質もまた金ではない』のです、他の哲学者も言うようにです。

その時、僕は「労働も金も社会契約に基づくだけであり、自然ではない。人工的なものであり、極論的には、金も労働も幻想なのだ」と答えました。というのは人間の行為というのは、結果しかないのです。金の為に売春したにせよ、何か嫌なことをやるにせよ、本人の責任でやっており、「金のために」と思う幻想を勝手に抱いているから、幻想を取り除いた時、行為しか残らない。戦争もそうだと思います。自分の脳ミソを「誰かの思い込みやドグマに乗っ取られる」のは自分に責任があります。その時の主張をここでは再度話しませんが、その時に日本人の同僚から「労働信仰」という言葉を初めて知りました。

「労働信仰」とは「働くことが良いこと」というわけでしょうか?確かにこのページのように、僕が前職でやったマクロも同じ結果になりました。 全然「給料が上がらない」のです。折角3-4時間の仕事を5秒にしても、そういう評価基準がないため、評価されない。(その時に僕もマクロを作ることを隠そうとすら思いました^^) 労働というのは、時間でも、金でも、ありません。そう考えることがすでに錯覚なのです。絶対に矛盾します。

労働というのは、絶対的な対応概念がない、もしくは未発達なのです。

労働信仰よりも先を観る

前回の記事を読み返して、今まだ、疑問が一つ残っています。
ニッチなサービスというのがここ何年も話題にされています。スキマ産業です。これは特殊な流れだとばかり思っていました。

実はこれはモノが溢れているから、ビジネスが間に入り込み、より便利になろうという、社会衝動に他ならない、と今日思いました。

要するにこうです。「モノを作る仕事も結構、頭打ちになってきた。社会に存在する人はそれでも不便な面を改善する。それが需要を満たそうとするサービスである。今までになかったサービスを作るというのは、既存の業界で競争するのは別の動きである」

僕はニートが良いって言ってるわけじゃない。今、僕も起業しようと思っている。『社会に必要なサービスっていうのは無限にあるはずであり、それができないってのは、怠惰なのだ』とさえ思う。でなきゃ、人に使わても良い。労働するってのはどちらにせよ他人に必要とされていること。

しかし実際には競争が激しくなっている

モノを作るサービスが飽和しているといっても、今後も新しい便利な製品は無限に出てくる「だろう」。それは建前のことだ。生き残るためには、ニッチな業界も視野に入れて、製品開発しないといけない。

でも実際、飽和していることには変わらない。つまり、製品もサービスも今後も伸びるんだけれども、歴史的に伸び率が少なかったり、伸びるためには今までのバブル時代よりも多くの工夫が必要になる。つまり、『生き残るためには、どうしても厳しくなる』ということが明らか。

悲観する必要はないと思う。しかしそういう点が分かっていないと、社会の波に呑まれてしまうだろう。他人と違ったサービスを作って『便利・快適・優秀ならば生き残る』。そういった社会になるんだろうと思う。発展している業界に身を置けば、喰いっぱぐれることはない。

でもそれだけじゃ、つまらない。

ニート賞賛の記事でも書いたけど、社会は色々な視点から語る事ができる。上記のように『生存競争』と『市場原理』の論理で行くと、非常に『闘争・競争』の話になる。たしかにこの世はそうできている。今は。

でもスイスの友人が10年後もまたニートだったりすると、闘争とか競争とか、そんなものの価値観が劣っている、と思った。実際に彼はそんな事と関係ない時間を泳いでいる。それが良いのだ。

闘争や競争っていうのは、自然淘汰の法則であるが、『果たしてそれが最上の意味を持っているのか』なのだ。どうしてもそうは思えない。

実際、安いサービスを指向すると、そういう競争になる。
機械を導入すると、他の業界人の食い扶持が減る。
Airbnbのように今、画期的だと、ホテル業界は下がる。

では人と争わない方法があるのだろうか。

時代は『闘争・競争』ではなく、『共同・共感』に明らかに向かっている。 これは人と争わない方向なのだ。僕はそれが今は正しいと思う。

「愛」という概念が「自然(淘汰)」には欠けている。
おそらく「愛や共感」が何らかの役割を未来に持つかもしれない。

続きはいつかまたブログで書きたい☆

ニートを賞賛するのではなく、社会における「あらそい=競争原理」はこれからもっと厳しくなる、新たな違うサービスを作らなきゃ生き残れない社会って何?、 という視点で書きました。ニートが社会復帰するのだって難しくなります。日本だと特にw

争いは更新であり改善であり、悪いことじゃない。しかし何か足らないんですよね。 それでは満たし合う社会にはならない。誰かが農業をしているから、自分は御飯が食べられる。では食料が満たされれば誰も死ぬ必要がない。なぜそうならないのか。それは世界が工業化に向かったからです。それは世界の政府が主導した歴史です。

今はその続きにいる。もし僕が君の食べ物と僕の食べ物を作れば、君の時間は浮く。その論理は正しいように思います。もし食料と水が確保できたら誰も死ぬ必要がない。その論理を推し進めたらどうなるのだろうか。人工知能の到来で失職しようが、不安がない社会って作れないんだろうか。

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