ドルナッハ オイリュトミー公演

(まともな)オイリュトミー公演を見たのはもう10年ぶりだ。

『自然を感じた』

10年間で自分の感性・霊性が変わったから?久々に観た「Saturn」(今年亡くなったLili Reinizer氏の追悼公演:20人以上のオイリュトミスト)から、『自然』を感じた。

オイリュトミーというと、どうしても舞踏だとか、舞踊だとか、そういう括りで観る人、踊る人が多いだろう。

なんかね、僕はわかった。それは狭いんです。

そもそも「舞踏や舞踊をやってます」的なものじゃないのではないか?
ということ。オイリュトミーを通して、大自然や自然を感じるなんて、とても良いことだと思うのだ。

オイリュトミーがオイリュトミーに捕われる、ところから、自由でなければならない。僕はオイリュトミストではないけれども、たいがい、やってる人もそういうことを考えていないんだろうな、と思う。

でね、自分はオイリュトミー信者でもないから、特別視なんてしない。

オイリュトミーを超えていくもの

オイリュトミーというのは、他の芸術と同様であり、地上性を克服したもの、完全な美、自然の粋を表現するものだ。

つまりオイリュトミーを観て、他の芸術のような、高揚が得られるのが当然なので、そうでないアントロチック・ドルナッハ臭い、オイリュトミー信仰から脱却しなければ、本当のオイリュトミーではない。

その意味で、オイリュトミーを超えるのはオイリュトミーなのだ。

ドルナッハ

本当はこのブログの今日の書き出しは、「ドルナッハに帰ってきた」と銘打ちたかった。冒頭の画像も、ゲーテアヌムから見える景色を写した。実に10年ぶりにこの地に帰って来て、若い頃の記憶に刻まれたこの景色に、自分は感慨を得た。

本物を見る・つかむ・飛び込む

何事も本物をつかまないといけない。

結局はそういうことだろう。

妥協は許されない。

そういう意志を持てば、良いのではないかと思う。

ドルナッハという特殊なもの、目に付くもの、そういう事が問題ではない

ドルナッハをも超えてゆくような精神に飛び込み、合一すること。

それが生きるということではないのか。

人の意志は目に宿る。想念は人そのものに宿る。真のアントロポゾフィーというのがあるのだ。それは雑多なものではない。人の意志と生き方に刻印されるべきもの。

日本でもアントロポゾフィーは枝葉末節における部分が紹介される。それは見方が間違っている。建築だとか、舞踊だとか、ドイツ的な朗誦だとか、教育だとか、そういう部分に自分を同化しようとするのは、一種の陶酔にすぎない。それは西洋の光であるが、スタイルに惑わされてはいけない。スタイルを超えたものを捉えないと、人生・真実には辿り着かないだろう。

そしてドイツ人・アントロ人も同じように捕らわれている。ドルナッハでも仔細なことに捕われる人が多いような気がする。あまりつまらない現実での矛盾につまづくクセを外さないと、ドルナッハもスイス的だと言われるだろう。勿論ドイツ的なのが良いとも思わない。

一言、ドクターシーズが追悼公演の前に数分述べたが、力がない。仔細な思考過程は彼女の良い部分だが、ドルナッハを牽引するような力は感じられなかった。

もしドルナッハに意志があるのなら、その高みを捉えないと駄目だろう。ドルナッハは自分で自分を超えなければならない。それは何を意味するのか。僕は真のアントロポゾフィーを追求する、という所に見た。

それはまだドルナッハにあるように思う。なんとなくだが、そう感じた。

岡田茂吉もアーリマンも同じことを言っている:

人類の文化というのは、いわば入れ物に過ぎない、と。

ドルナッハも入れ物に過ぎない。「超えようという意志がある」こと、ニーチェがギリシャ神殿に見た、『思想』があるということ。

自らを超えようとしない者に、どうして発展がありえようか。

 

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