アントロポゾフィーにおける欲と分身の問題

日本画を手習いする機会があり、初めての事だったため、題材を選ぶため目録(画集)を見たのだが、江戸時代の民画は「教訓物」が多い。

私は昨日の「自由の意味」という記事で書いたが、「霊」を感じる芸術を求めていた為、その目録の中でできるだけ「地上性」を克服できそうな題材を求めた。が、江戸時代の民画というのは教訓的・ご利益的なものが好まれ、仏教的・禅的なので方向が違う。

どういう事かというと、絵画自体の中に霊を表現する方向ではなく、江戸庶民の文化や感覚では、鬼やバケモノに自分を同化し、悔悟を求めるものが主流なのだ。

西洋思想と江戸文化のカルマ思想の違い

ゲーテなどのドイツ思想や西洋でのザノーニにおける思想などに、分身の問題がある。Rシュタイナーのアントロポゾフィーでもカルマが問題にされるが、このドッペルゲンガーに対してリアルな感覚がない。

この現世で霊学や精神科学を身につけようとするとき、またはキリスト教世界観で、霊を求めようとするとき、自分という個性の中にバケモノが存在している、という風には西洋の世界観では考えられていない。 あくまで倫理が存在しており、それは社会倫理だったり、箴言だったりして、明示的で哲学的であり、明確性に基づいている。

しかし実際に社会を見ると、欲の部分が人間に現れている。つまり明確な倫理性と欲の部分とは、異なって捉えられており、それを総合して「人格」としてゆるやかに判断されている。今は日本でもそう判断されていると言っても良い。

カルマというのが、江戸では当たり前に存在しており、浮世からの解脱が文化として存在しているのだ。だからデーモニッシュなものが好まれる。

これは西洋では分身の問題として可視化しようとしたものと同じなのだ。自分の分身がデーモンなのである。つまり江戸文化から言うと、このバケモノたちは、自分自身であり、畜生に堕ちないように、自分達を洒脱・解脱しようとしたのである。

西洋でも昔は人間らしくない動物性が嫌気された。民衆の心はそう動いている。

カルマとは何か

この問題、結構根が深いと思う。現代に生きる人間は、人間は自己を持っているが、自己もまたデーモンの現れである、とは考えていない。

人間は誰しもバケモノであり、気が狂っているところがある。しかし自然と教育、つまり通常意識がそれを感じさせていない。かといって、いつも他人がバケモノだなんて、思いたくもないのだ。いつも機嫌が良いのが良いのだし、そうあるべきかと思う。理性とはそういったものだ。

キリスト教で、霊が問題になるとき、自己が霊化するのを求めるようになる。それが聖書だから。「霊の国を求める」とはそういうことである。

シュタイナーはキリスト教においてカルマを語るが、元々はキリスト教はカルマを考えていたとしても、仏教とはあまりにも異なる。

カルマがない仏教ほどあり得ないものはない。それほど薄っぺらな仏教など存在しえないし、存在する意味もない。

こう考える時、人類を導くマイスターが”もし”居るのだとしたら、元々東洋はカルマ付きの世界観、西洋はキリスト教世界観、という風に設計したのではないか?という考えに導かれる。結果的にキリスト教には、カルマ付きの世界観が育たなかったが、真剣に哲学や霊学を勉強しようとすると、どうしても人間のデーモニッシュな部分に目を向けざるをえない。

誰に罪があるのか、人間に罪があるのか

「人間は元々罪深い」のか、「罪を背負ってきているから生まれる」のか、キリスト教も仏教もなんというか、概念的な部分が曖昧だ。

結果的に言って両者は正解だろうが、キリスト教はすでに現代人の意識に適合しているとは思えない。というのも仲介してくれる西洋哲学の威力が無いのだから。「~~だから罪が深い」と考えるのが思考であり、科学であり、客観的な価値を持っている。そこは仏教ではある程度カルマの概念で説明されているが、やっぱり今日的な個人個人の明瞭な意識に対して、個人個人での実感ができないように思う。

もし宗教が初めからなかったとして、自分に罪がある、という風に考えられる謙虚な人間はそうそういるのだろうか、ということだ。誰しも人間というのは弱いところがあるので、それは性格だったり、記憶からはネガティブなイメージを自分に持っている。コンプレックスというのは、そういうものだが、カルマのイメージも道徳倫理上、そのようなコンプレックスにさらに複合して作用しているわけである。

しかしコンプレックスというのは、私自身、非理性的だと思う。基本的にポジティブに生きていれば、人間は理性的でない罪悪感を感じる必要はない。そう理性というのはこの世界において、考察対象が物質的なものに限られると浅くなる。もし霊的世界まで理性を拡大するなら、人間はネガティブにならざるをえない。しかし日常的なところでいうと、社会悪を犯さない限り、人間は誰しにも謝る必要はない、、はずである。

宗教というのは霊的世界観である以上、考察対象が低めな理性に対して、こういうジレンマを抱えている。故に、理性には「罪深い」という説明が通用しないのだ。まぁ、原爆とか、普通に考えて悪魔のように残忍なこと、戦争も争いもそう、そういう誰でも理性で分かる罪と、ここのように「カルマ的な罪深さ」、前世やそれ以前からの罪穢れ、とは異なるので、理性でも分かることが必要になる。

 

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