自由の意味 R.シュタイナーや岡田茂吉等の霊学思想研究より

最近感じる、自由の意味。

自由とは無制限に価値のあるものだ、という事には間違いないだろう。
これは殆どの人にとって、賛同できるものだと思う。

自由と愛、これは表裏一体の関係であるのは、霊的思想からも判るとおりで、今後も間違いなく王道であり続ける。マニ教やミトラ教などの「兄弟愛」という観点からも、より草の根で共感を呼び続けるだろう。

「自由と愛」というこの人類の素晴らしい理想に対して、何か欠けているものを感じる。素直に自由を悦べない。

月で言えば、半月のように、意識されない部分というものがある。
陰の部分というものが見えているので、自由の貴重さの裏に、反面、不気味さと霊学が目に入ってくるのだ。

全ての思想は出揃っている

シュタイナー思想や岡田茂吉・大本教などの日本霊学を辿っていく中で感じることは、世間で言う通り、何かを得るには何かの代償がある、ということに尽きる。今更そんなありきたりな事を言うのも陳腐なのだが、この文脈では「思想」について。思想とは誰々がどう考えたとか、誰でも考える事ができる、といった類のもの。そして人類の発展を考えると、これからも新しい思想が出ることは間違いないものの、そういうビックイベント的な『思想の自由や思想の多産性という時代は過ぎ去った』と捉える事ができる、という点に今日の論点がある。

一例でいうとアンディー・ウォーフォールが鮮やかに絵画芸術を解体してみせたように、芸術とは個々人のものになった。芸術は地に落ちた。

ヨーロッパ絵画や思想のクオリティーに、アメリカは為す術はない。だが思想や芸術のあり方はそれを通して個人のものとなった。それは地に堕ちたとも言えるだろうが、必要なことだった。

同じように今日の思想もまた、限界を感じざるを得ない。すでに高みのピークに達しており、現代では個々人が色々な思想を楽しむことができる。それはより自由に達していると言って良いだろう。

つまり思想のバリエーション、つまりロックで言う所の60-70年代、及びそれ以降などの『勢いやバリエーション』は出揃ったと考えられる。

そう、我々はかなり自由なのだ。選択としても、研究としても、例えば10年スパンで色調は変わるとはいえ、大きく今後は選択肢として変わる事がないということ、これが「自由」ということ。

もう人間はその気になれば、理想は知っている

これは誰かから教えられる必要がないということを物語っている。

厳密に言うと、精神性や成熟という意味では、個々人で様々な違いはあり教えてもらったりする価値は十分あるが、人類全体としては、ある段階に達している、と考えて良い。

スピリチャリティーという言葉で、出てきた思想を辿ると、例えばシャーリー・マクレーンなど、大きな生産があったものの、それほどに近年になって伸びていない、ということからも、あまり発展していないと言える。

もう、あなたに教えることは、ないのですよ、という事なのだ。

自分で勝手に学び、その成果を自分で消化する、という事に、「現代の時間が使われている」と観るべきだろうと、私は思っている。

だからこそシュタイナーはこの時代の事を「ミカエル」と呼んでいる。沈黙し、自由にさせる「大天使」のことだ。ここまで書くと、シュタイナー霊学を学んでいる人は、重い心になるだろう。それはこのミカエルの時代こそ、人間は、個人は、勝手に学ばなければならない、と思い知らされるからだ。誰も指導者が居ない、という事だ。この意味でカリスマが居ないほうが良いのだ。カリスマが居るとそれに引っ張られて、踊ることになる。そうではなく、人生から自分で学ばねばならない。

そしてあらゆる分野で、人間は小さくなる。薄っぺらになる。しかしそれが逆に自然にプラスにもはたらく。カリスマが減っていき、身近な存在や当たり前な他人の意見に耳が働くようになる。プチカリスマの方向に向かう。それでいい。ここまで感じるようになると、今度は自分達が峠を過ぎた事が分かってくるだろう。

自由がこれをさせているのだ。自由であることが、それを生み出している。非常に自然な流れだ。

努力しようとすれば、完全な状態である事を知る

つまり、もう自分というものは、完全な状態にある、ということ。

何をまさか、ということではあるが、全体としてはそう言っていい。

ある成熟段階に、誰しもが立てる、ということなのだ。理論的には。

これはもう子供や指導を受けるメンタリティーではない、ということ。
自由というのは、常にそうだ。もう助言者・そして預言者がいない、ということ。精神的な自立であり、もう十分なエネルギーが自分にある。

それを信じてさえいれば。

それが自由という意味であり、マニ教でいう寡婦の子という意味になる。遺された聖典を自分で消化できなければならない。誰も教えてくれるグルなど居ない。カリスマは極端に言って、自分しかいない。自分がマイスターであるべきだ、という事も意味する。

これは誰かに何かを教えてもらうのが好きだったり、宗教に勧誘されやすい人には耐えがたいことだろうが、自分の聖典で、自分を常に裁かなければ、何者にもならない、という事を意味する。ドライな見方だ。

現代は非常に恵まれた時代

社会機構的にはマスメディアを見ればわかるが、非常にプアな時代であり、物質的には恩恵が沢山あるが、精神的にもまた恵まれた時代でもある。自由であり、選択肢としては豊富だ。しかしこの自由さの中で、どのように時代を捉えるか、人はあまり考えていない。その日暮らしであり、それがまた無限に自由だ。

実現しないとは思うが、ベーシックインカムが成立するとする。そうするとより自由な状態へと移行するだろう。しかしいつも月の影の部分が分からないと、誰にそのしわ寄せが来るのだろうか。

世界は常にバランスの中にある。大きなバランス、反動が自由にも訪れる。世界は我々から刈り取るだろう。戦争になるとか、この世的な意味では言っていない。そうではなく、霊性としての人間が自由をフル活用したかどうか、問われる時代になるだろう、と私は観る。

その人次第なのだが、その人に相応しい仕方で、世界は問うだろう。

いや、ここでは自由が問うと今は言える。自由があり、完全性のピークにある。それを意識した時、自分もまた刈り取る者であることを知る。

他人から及ぶ光

シュタイナーの講義で、賢者は誰から学ぶか、というものがある。

自分より劣った者から学ぶ、というものだ。普通は権威あるものから学ぶ。当たり前だ。しかし拡張して考えて行くと、他人からの光が出ている事がわかる。この事は日常生活で、まだまだ学ぶことがある、という事を意味している。「劣った者」というのは別に蔑んでいるわけではないが、一般的にその人の話は流され、見過ごされ易いものの、その人の「光」が含まれている。ある人の中にある光が、実際に感知されにくいというのはよくあることだが、多くの場合偏見や外見などでフィルターされているだけで、簡単に認識できるものだ。

無限に我々はツールを持っている。そして完全でもありうる。

自分が完全でない、という思い込みや焦りが、緩やかに観ると、自分を盲目にしている。これは日常意識ではすぐに発揮されないだろう。何かしらについてすぐに判断すると、損なのだ、という事が分かるし、それに欲望や野心を持っていると、なおさら悪影響になる。人に対し、野心や欲望や恐怖を持っていればいるほど、自分で盲目になる度合いが強い。これは非常に損なことだ。もちろん野心や欲望には決まった割り当てがあって、得をしているので、止められない。それは生き方の一つだが、結局は類は友を呼ぶ、ということで人間関係では顕著に表れる。

自分もまた刈り取る者、という意味でこの例を挙げたが、若い世代とも接しているせいか、バブルの頃の人間というのは権威に弱く、何かしらの妄信があると思える。これはどの国でもそう。時代が作ったことであり、仕方のないことだが、若い世代ではそれが相対的に減ってきているのが、おそらくわかるだろう。さしあたり残念に思うのはこういう点で、他人に光を見るとか、素直にはわからないだろうということ。勿論例外などはいくらでもある。ただ世代によって多少の混乱があるように思える。

教条主義が如何に多くの人間を駄目にしているか、わかる。勿論大きく貢献している点もあるが、戦前の人間などは、立派な人もそれはそれは多いだろうが、型にはまっており、戦争などをしたり、党派を組んではいがみ合ったり、今でもそういう人はいるが、人間理解にとっては大きくマイナスであるように思う。だからこそ、自分はこういう文章を書いている。すでに自由の飽和・限界・完全性に達しているのだと。ツールはもう各人が持っており、そして自分で自分を定義・解体・評価する時代に入っているのだと。

ま、言っても分からないだろう理由は、実感ができない、という点なのだろう。しかしそれこそ自分を崩さなければならない過程であって、他人が教えることなどそうそうできない。努力しなければ得られない。

努力している者に、努力していない者が到達しうるか。どの技術でもそれは少ない。いきなり新しい事ができるかというと、コツを学んでいかなければならない。

霊学としての自由

自分としては霊学に自由は無い、と書きたいところだ。

それは学問であり、カルマであり、”必然”という糸の下に全てが運行しているのだから、自由もまた意味があり、自由の反動および価値は、関連づけられていると考えられるのだから。

人間に与えられる「自由」は至上の価値がある。しかしそれは一定の流れに沿ったものであり、「ある」と思い込むのは幻想に過ぎない。なぜなら無意味に発生したものではないのだから。いつかプラスとマイナスの帳尻が合う時点が訪れる。人はその時、何を思うのか、いや正確に言うと、何を体験せざるを得ないのか。

それは言いたくないが「悲劇」だ。しかしこれを「実り」にする方法がある。ニーチェか誰だったか、自分の盃を満たす、という言葉がある。自由という時代に、自分の中で霊杯を満たさなければ、意味がないということ。探し求めなければ、答えに到達することもない。

霊を求めれば、霊を受けられるであろう、ということは、聖書で保証されている。その意味では聖書の記述は、確かに福音で間違いない。自由を書いておきながら、陳腐な括りになってしまったが、これは聖書がどの時代にも通用する形で書かれているためだろう。

自分なりに書いておくと、もし霊に生まれた時、恐怖を感じないか、ということだ。霊の杯を満たした時、自分の位置が別の立場に基盤を持つようになるので、やはり恐怖には違いないのだろう。そういう意味で、現実も霊も地続きであることがわかる。そうでなければ聖書の世界観は、全く意味をなさない。

意外と霊は近い所にある、というようにも思える。それは絵画や音楽などの芸術からも分かる。そうでないとまた絵画や音楽には意味がないのだから。地上性を克服しているもの、それが霊そのもの。

シュタイナーはこのような事は語らなかったように思うし、岡田茂吉もまた芸術を霊的に捉えたが、芸術=霊とダイレクトには語っていない。

しかし霊とはかくも身近にあると思えた時、恐ろしくもあり、また豊かでもあり、現実に居ながらにして異世界に踏み込んでいるようにも思える。自分はスウェーデンボルクなどのアストラル的な話は嫌いなほうである。しかしこの世界の自由とはまた違った意味で、霊は「自由」でもあるだろう。芸術における高揚は、自由であるということを意味しているし、それ以上の何かだ。つまり、霊とは「この世界の自由」以上の、「至福」という感覚に近い。それを意識することが、月の影の部分を補完する、つまり現代の自由のうちに至福を得るということなのだろうか。

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