Geist was erzählt uns

文学および神学、そういう文脈の中で、
「霊を求めよ」とかいう表現が、今までさっぱりわからなかった。

おそらくキリストの言葉の中にもそういう表現があると思うんだけど、「何故、わざわざ求めないといけないのか?」 理由がわからなかった。

だけれど、霊というのは、幽霊とか、神とか、
そういうモノではない、という気がしてきた。

というのは、人間には知性があり、霊つまり精紳があり、
行き着くところは、「同等のものが同等のものを求める」
ということであり、そこを基盤にしなければ、そういうことは言えない、
という事に辿り着いたからだ。これはそう、結論である。

我々の本質的存在は何か?

人間である以上、色々な事に関わるし、矛盾も多い。
魂もあり、精神でもあり、どこに自分の本源が存在しているのか、
考えざるを得ない。本源は精神・霊にあるとしか考えられない。

愛・憎・欲、色々な事があるけど、結局意外とどうでもよく、人によっては神だとかいう風に考えたがるんだろうけど、それはマストじゃないような気がする。精紳としての自分は同等のものをこの世界に求める。
しかし見つけるのは「自然」だとか「世界」だとか呼ばれるもので、「霊」ではないのだ。しかし「自然は霊」であり、世界も霊であるだろう。
だけれど、その本質的な霊性がすぐにわからない。だから、人間は霊の語る所を探すのではないのか。

宗教の即物性

神や宗教を否定したいわけではないのだが、運命というものは少なからずある、という風に納得しているにせよ、何でもかんでも神だとか、そういう狭い精神性に還元してしまうと、やはり独善に陥りやすいというか、女性っぽいというのか、理屈の”中”で生きることになってしまう。

そもそも神は人間にそう簡単に発見されるものなのだろうか。
結局「自分に都合の良い神」というジャンルに入ってしまっては、議論や哲学に深みが出ない。だからそういう意味で「霊を求めよ」という表現はまだ「神を求めよ」という表現よりも”広い”と考えられる。

ただし「霊を求める」という表現を用いたところで、一般の人が納得するかというとそうでもない。僕がそうだったのだから。いきなり「霊」とか言われたって、それが何を意味しているのか、曖昧すぎる。

人間は霊であり、自然も霊である。そして霊は霊を求める。
そう言われたらまだ考え始める余地はある。

そして確かシルバーバーチとかだっただろうか、ひっくるめて、霊が語るとか、怪し過ぎる。確かに交霊・降霊とかいうのはあるにせよ、それって一種のマテリアリズム(物質主義)だよね?って話になるのだ。

霊が語りました、これが霊の声です、って言われたところで、結局人間の霊が求めているのはそういう狭い事じゃなくて、もっと本質的な欲求だよねって話になるのだ。特定の霊示・啓示があったところで、会社で上司から命令が下ったのと、そんなに変わるのだろうか?ってこと。

人間の霊がテーマにしているのは、そういう特定の垢まみれの事物じゃない。もっと本源的な欲求のことであり、現実的なレベルじゃないのだ。

じゃあ、霊って何?

っていう話になるけど、僕だってわからない。
ただ語るもの、語りかけるもの、っていうことだけかな。
それが霊の本質ではないのかな?僕がわかるのは自分が霊だとするなら、等価のものを求めるっていうこと、なのだ。

だから文学的な表現が僕には適切だと思うが、他の人には宗教かもしれないし、それは個人で色々あるので仕方ない。ゲーテで言うのなら、自然が神であり、自然は我々であり、っていう話なのだが、神学でいうところは、「霊を求める」っていう表現にあたるってこと。

結局はこういう事はドラマ性があってしかるべきもので、「主観」があり、欲求があり、そうなっちゃうんだよね。求めるっていうのはベースに流れているものなのだから、一定の気分を伴う。だから文学とか宗教でテーマとされるものなのだろうけど、哲学でもあるのだろうし、言ってみれば理屈は通っているってこと。だから簡単なことなのだが、だけれども「霊」とか言われても普通はピンと来ないよね。

こういう面はプラトンの語り口っていうのは、賢いと思えるところがあり、Geshicktというか熟練されているように思う。

「霊を求める」っていうことがわかっても

ヘッセの「郷愁」は叙情的すぎて、これには当てはまらないが、近い。でも一番近いのは宗教であり、神学なのだと思う。でもそれは一般の人に関係ないってことでは全然なくて、人間存在として生きるなら、普通にあることなのだと思う。今回はただ、自分の忘備録として書き記したいだけなのだけど、そういう気持ち、気分を基調に持つってことは、結構リアルに大事なことで、人間の霊性にとって、養分を得るような行為に近いんじゃないかってこと。

ある程度メモだから適当に書いているが、世間の「スピリチャリティー」と言われるテーマっていうのは、これが本源なのだろう。書いていて、養分を得るとか、曖昧なことしか言えないし、最終的にそういう行為、気分が何なのかを定義もできないのだ。経験がないから。

ただ歴史上の先人達はそういう道を通ってきた。であれば、そういう道があるのだろう。今では何でもググれば、ある程度ざっくりとした情報も得られるが、そういう筋の情報は残念ながら期待すべくもない。

自然が語る、物事が語る、そういうことが自然な欲求として芽生えるという風に霊学は語る。ゲーテもそうだった。ファウストは語る霊を呼び出し、自分の低さにたじろいだ。語り手を欲したのだ。しかしそれは形象にすぎない。人間の霊性というのは特定の形象を求めているのではなく、語りかける霊を、自然の霊が語ることを求めている、ということなのか。

そう、それ以外、求める所がない、というのが今考えるところだ。

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