PrideかJapan Prideか

人間の原動力にPrideというものがある。

このPride感覚は人によって段階がさまざまで、人生におけるルールなどは存在していない。人によっては美学に近い場合もある。

仕事や環境が要求するもので、そのような尊厳において活動することも多いだろう。現場が要求してくるのは、例えばドイツではクラフトマンシップも大きい。プロらしさもまた、そういう要素の一つだ。

JapanPrideという言葉が、日本ではたまに聞かれる。
このジャパンプライドを鼓舞するのを聞くと弱さを感じるのだ。
日本人だから誇らしいのかと。集団性を誇って何が楽しいのか。

日本という看板を取ったら、お前に何ができるのか、と。

弱い者が隠れ蓑に覆われて、何がジャパンプライドなのか、と。
そういう時、個人のプライドこそ、より確実な根拠になると思える。ある状況で個人の限界点を超えたり、環境の求めるものが通常よりも大きい時、できるかできないか不明でもパワーの源になりうるのが、Pride(尊厳)なのかもしれない。

そういうPrideはクラフトマンシップでもありうるのだが、決してそれだけじゃない。生き方もPrideのひとつだ。人によっては当たり前の話だし、別の人にはPrideなんて重視しない人もいる。

Prideが高いだけだと鼻高々の意味しかなく、差別的な傾向を持ち始めるため、実に狭い世界に踏み込むだろう。それは危険の第一歩だが、個的な原動力としては最終ラインを決めるものだ。

結局、Prideは個人にしか解せない。夢、動機、環境が要求するもの、色々な価値観が自分をどこに連れて行こうとするのか、そういう人生の旅のコンパスとしても、Prideは存在している。

面白いは柔らかいプライドというものがあるのだろうか?という問いだ。プライドは個的で硬いというイメージは、常に意志の強さとも関係している。

負けるが勝ちという、世の達人的な生き方もgeschikteだ。
共生する上で、目の前ではなく、別の処に価値を発見する創造性である。

プライドをどこに見出すか。そう考える時、人は自分自身の価値を考え始めるだろう。しかし現実の価値など、幻想である。価値などは現実で確実に固定できるものではない。その時、形而上の世界に人は侵入する。美学である。美学は現実のものではない。そうありうるものもまた美学であり、そうありたいのもまた美学だ。可能性の世界だ。

人間は可能性の世界で挑戦している。未来は決定的ではない。
その時、理想や夢を可視的世界に持ち込めるか、そしてその夢は妥当なのか。夢よりも結果のほうが素敵でもありうる。

素晴らしい世界に我々は座している。明日が新しい世界を我々に告げる。結果にはまた、絶対的な価値が含まれていない。黎明が我々を導いているだけであり、我々は良い踊り手であったのだろうかと自問する。シナリオライターは我々じゃない。

我々は何に頑張っているのだろうか。我々は一種の歌ではないのか。賛歌が鳴り響くが、それが美しいものであるのか、狂っているのか、踊り手は知っているものだ。そう考える時、未来など実は存在しておらず、現在しか存在していないような気がする。

歌い、踊れ。自分の好きなように。未来は存在しない。

今しかやる時がない。旋律を決めるのだ。天上の旋律を。
極上の旋律を。

キリストは大地に文字を書き込んでいた。その音符が上手く旋律化され、地球に記憶されることを願う。智慧が幸運にも訪れますように。。

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