大本教と神智学-70年安保の亡霊と日本の霊界-

「日本会議の研究」で暴露された日本の実態を見て、日本人の精神的支柱について触れたい。

これは多くの日本人が置いてきてしまった「大本」における日本の「精神史」に関わることで、その精神史が欧米とどのようにリンクしているか、概観したい。

マインドリーダーとしてのアイデンティティ問題

人間として産まれたからには、自分や世界の来歴について、知りたいという欲求がある。世界史が証明しているように、様々な精神論が説かれた。そのひとつとして、「ニューエイジ」と呼ばれる分野がある。その爆発は1800年代後半に起こった。

ブラヴァツキー夫人の『シークレット・ドクトリン』が西洋で神智学を産み、日本では出口なおが神がかりとなり、自動書記を行なって、大本教が産まれた。

日本ではこの爆発は大本教とその支流を産み、戦前の日本で大本教の弾圧が行なわれた。その規模は数百万人という規模であり、戦後の生長の家・救世教などを含めると、とてつもない規模でその思想が育まれたと言っても過言ではない。

一方、西洋ではブラヴァツキー夫人の影響は減殺されつつも、神智学という霊統は無くなっていない。ヨーロッパには秘密結社の伝統が存在し、貴族を取り込んで、フリーメイソンのような社交クラブにまで発展したが、ブルワーリットン卿『ザノニ』に見られるように、オカルト(隠されたもの)はまさに文化として存在している。

1880年周辺の世界の起爆剤と共時性

共時性の理論としてユングを取り上げるつもりはないが、科学が唯物論として世界を支配し始めたこの時、ニューエイジの源流とされる爆発が1880年周辺に日本でも世界でも起きた。

芸術においても19世紀末は非常に豊作であり、研究としても共時性という観点では、この爆発に比較できるかもしれない。

まさに「文化」として、「日本の出口なお」がある。

世界は古い伝統的価値観、Lehre(教え)から現在にアクチュアルな解釈を生み出そうとした。それがあの爆発である。

15世紀、世界は大きく変化を遂げた。ルネサンスである。人間の知性は別様な「進化」を遂げたと、誰が疑わないだろうか?

仏教にとってルネサンスとは何か

それはキリスト教においても同様であって、一切の説明がない。キリスト教においても15世紀はプロテスタントを産み出し、事実としてのアイデンティティ問題が顕れた。

つまり仏教もカトリックも、時代にはついて行けないのである。
ルネサンスほどは判りやすくないが、同様の爆発を、あの1880年位に見ることができる。

ここで人間進化論を説いているわけではないが、「出口なお」という人物からすべてが始まった日本での現象は、一体なんだったのか?という疑問を改めて問う必要があるだろう。

レッテル貼りでは霊性を抑えることはできない

キリストが死んだ当時、全世界のほとんどの人間は、キリスト教がこれほどのものになると、誰が予想できただろう。
日本の文化人も、聖書を手に取れば、誰でも、その大きさを理解する事ができる。それが戦国時代でも、現代でも、である。

日本人の霊性を考えるとき、日本人の共通魂のような、非可視的なものに触れざるをえなくなる。日本人は、「出口なお」から始まる「あの衝動」をどう考えることができるのか。

西洋神秘学でも、「キリスト衝動」という言葉が用いられることがある。そのように、何かが起きた時、それをどう解釈すべきか相当の数の思想が生まれる。

今までのアイデンティティよりも、さらに核心にせまる上乗せがなければならない、というような「後付け」的な衝動に駆られるだろう。

その意味で、サニワ師出口王仁三郎やそれに続く活動家は、極めて「思想家」であり、ダイナミックな文化だと認識できる。

右派と左派の対立

これは保守とリベラルという対立でもある。新旧という陣営に分かれて、神道論争が繰り広げられるのは、まさにキリストが出現した時と全く同じであることに注意したい。ユダヤの律法学者が、どれほどキリストに抵抗したのか、よく観察できる。

人は未知なものに向かい合う時、尺度を求められる。結局そのことに起因して、保守とリベラルは争うのだが、大本の場合、時代の状況で、リベラル=共産主義、右派=皇道、というような図式になってしまった。だが「出口なお」の筆先には、そういう解釈やそもそも政治は全く含まれていない。

結局、お筆先という形となった「神」の自動書記は、各人の立場とは全く関係がないことに注目する必要がある。伝統的な神社や仏教という「立場」、アカデミズムという「立場」とは何の関係もない。しかも、出口王仁三郎から続く、インスピレーション的な解釈群は、それぞれの魂から行き着いた「カリスマ的」なものであり、「お筆先」とは異なる。

ここに右派や左派としての争いは、全くもって外部的な「立場」であり、大本教の中で「お筆先」がいかに原本的、原典的意味があるのかが、容易に理解できる。

「お筆先」と「解釈」は別モノ

だが「お筆先」は審神(サニワ)=解釈が求められるのも当たり前である。そもそも筆先は脱魂状態の自動書記によるもので、書き散らかされた巻物に過ぎない。

だから大本教のかなり最近の焼き直しである「日月神示」を読むと判るとおり、筆先とほとんど性質は変わっていない。それがやはり「解釈」を必要とされるシロモノであることは、自明だ。

人は機械ではない

観念上、出口王仁三郎やそれに続く人々が、多くの信徒を獲得したのは、「偶然」であるという見方がある。だが、西洋のオカルティズムからいうと、そんな偶然は起こりえない。

出口なおという女性から始まった一連の精神運動は、それぞれの指導者である「魂」から発したものであり、歴史的に見ると、日本思想史における「豊作であった」という見方もできる。

いわゆる集合的な魂の働き方が、日本の霊性に関与している、という見方が、西洋神秘学から保証されていると思える。これが、日本の精神的な支柱として、民族的に捉えることができる。

表現的に古いが、いわゆる「ドイツ民族」において、ルターやカントやゲーテがまさに民族の象徴とされているように、日本の精神史における「事件」として評価されていない。ドイツに出向く時、この事を意識せざるを得ない。いわゆる自己評価として、出口なおの事件は何だったのか、という民族的解釈がないのだ。

さりとて、民族派と呼ばれる争いを思い出すべきではないが、楯の会や生長の家の残骸の、酷い悪臭を考えない訳にいかない。

楯の会とSEALDsという右派左派が逆転したような働きをしているこの安保関連の戦いは、日本を精神史的に振り返る時、とても「生々しい」ものに見える。

亡霊に犯される日本

70年安保の亡霊が、今、焼き直して2015年-2018年安保として活動している。SEALDsという新しい世代が時代の共感を呼んで、まさに売国的な政権に対して、意義を表明した。

この売国という行為は、そもそも明治維新から始まっているのはお判りだろう、長崎にグラバーが、横浜に吉田茂の祖父が活動しだした頃から、日本は売られており、今日まで、多くの混乱が日本民族に起こってきた。商人が日本を壊し、幕末から太平洋戦争を経て、戦後さまざまな売国が行なわれている。

江戸の士農工商という、一番下賎の商人が、日本を動かしているという悲喜劇。この売国が常に隠され、まるで頭に茨がかけられたように日本民族は苦悩してきた。そのような暴発が、戦争のような形となり、自己制御できない「日本の魂」を呪縛している。

この世代間に受け継がれる「亡霊」は、形を変えて再び日本を襲う。何故なら魂は生きた「思念」である。だが、こういうことはどの民族でも起こっている。ロシアでもドイツでも民族は時代を呼吸して私個人が巻き込まれてゆく。大きな亡霊が漂うように。

様々な思念が飛び交う中、右派も左派もない。思念が存在し、人々を操る。

多くの精神史は思念の塊

自らに起こる精神のダイナミズムを、人はどのように考えるべきだろうか。霊には鎮魂という言葉があるように、思念には帰結する故郷がある。個人の人生においても、一連の出来事は静観され、消化され、智慧となっていくだろう。そのように、民族の精神史は民族で消化されるべきものである。一定の評価、洗練、合意、解釈が必要になる。よって、事件は共有され、共感され、帰結が与えられるはずである。

これは世界規模のことでもあり、資本主義が共産主義を産み、どのように帰結すべきか、一定の状態を得られなければならない。いわゆる化学でいう平衡、普通の言葉では均衡=バランスを見出すということにある。

大本教とその派生運動については、1880年という記念碑的な年から始まる日本の文化現象として、消化すべきだろう。

だが一連の歴史は数百万人の「魂」を経たのは事実であり、それ自体が「思念」である。思念は生きる。

思わせぶりな宗教解釈

「三千世界の立替え立直し」という内容やその他の霊学そのものをここで解剖するわけにはいかないだろう。だが、

 

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