「神殿伝説と黄金伝説」復刊。「星の王子様」復刻。

幻の本、「神殿伝説と黄金伝説」が復活している。

【R.シュタイナー(著),  高橋巌(訳)】
5,000円するが430ページ以上ある。シュタイナー思想の核心に迫る内容は、最奧の書と呼ぶべきもの。

十数年の間、絶版となり、中古で高値で取引されていたプレミア本です。私も熟読していたが一応買っておいた。

2016年の幸先の良いニュースとして、もうひとつお届けしたい。

幻のアニメ、「星の王子さま」が復刻している。

これも中古DVD等では3万位するのだが、dアニメというサービスで観る事ができる。しかも無料。(月額400円の登録が必要です)


上記の本同様、プレミア物が安いから取り上げるのではない。

prinzこの1978年のアニメは当時から子供心に何か感じるものがあった。暖かさとでもいうべきものだが、印象的過ぎる点としては、冒頭から他のアニメと全然異なり、原作者 サン・テクジュペリ のメッセージから始まるのだ。

手塚アニメ(漫画)の仏教的に壮大なメッセージ性と、何か比較できる「純粋さ」を感じる。
IMG_2377原作にはないオリジナルの部分もあるが、心を打つシーンは数あり、教育的そして何より道徳的だと感じる。

さとり世代宜しく、星の王子様のメッセージ性「生活の精神化」は今後どんどん大きくなってくると思う。

そしてもうひとつの印象的すぎる点として、OP曲そのものだ。「だけどあるんだよ。見上げてごらん、きっと君にも見えてくるよ」

上記、R.Steiner「黄金伝説と神殿伝説」には「マニ教」の神髄が書かれている。マニ教とは「孤児のマニ」が創始した宗教だ。

星の王子さまも両親が居ない名前も名乗らない

マニ教とは何か?は、本やこのブログを読んで頂くとして、一番書きたいことは、「大切なことは何か」ということだろう。それは「大切なことは目に見えない」という表現ではない、「霊界はあるんだよ。見ようとすれば、きっと君にも僕にも観えるんだ

マニ教は観念ではない。生活だと思う。バラに価値があるのは、それは生活つまり「こころ」に関係がある。自分に関係のないバラに価値を見出すのは、観念論であり妄想の一部だ。そのように大人は容易に偏見を所有している。価値はだれが決めるものか?それはそもそも自由であり、他人が決めることによって、名誉や権利やカネが発生しているだけであり、自分が主体であれば、それを従属させることができる。だから王子様なのだ。

人は本来、価値を自由に決めることができるんだよ

そうできないとしても、それは集団催眠のようなものであり、個人の実存主義とは全く関係がない。あるとすれば観念しかない。

ではどういう事になるのか?それが実存主義的な「個人的に大切なものは何か」という事になるだろう。アメリカ的に言えば、「Family」になる。勿論、そうではない。本来、キリスト教の最も正しい帰結は「血の繋がっていない人への愛」であり、例えば「寄付」などだ。精神的、理想的、気持ち的に一致することで、実存的人間関係を充実させるだけで、観念的なカネや権利や地位そして血は二の次だという、実存的価値観が、「本当に大切なものは何か」を問うことになる。

ハッキリいうと星とは何を指しているのだろうか?

解釈学ではないので、世間の印象で述べたい。それはカルマだ。私たち人間は仏教的世界観で言うと、「生まれ変わり」の法則に従っている。それはいかにも科学で否定されているように思われているが、もしカルマの法則があるのだとしたら、「わたし」とは一体誰なのだろうか?それは考えざるを得ない。日々の生存の証を何に求めるべきなのだろうか?日々はただ過ぎ行くだけ?

そうじゃない。カルマは星だ。宿命の星のようなもの。

日々に証されるのは、自分自身である。誰も自分自身から逃れることはできない。では自分とは何か?それが過去のカルマだ。『では過去のカルマとは何か?』と考えるのが普通だ。それを考えさせないようにするのが、あの「科学という誘導」だ。世間というのは、ナナメから見ようとすると、そう解釈できる。

「人は己(おのれ)の星を背負っている」

カルマという表現が苦手なら、そう考えていい。自分の星だ。
そして星と星が出会うと、結び目ができる。それが出逢い。
もしも人間の体験から「主観」を取り除いたとしたら、「こころのバラ」つまり自分にとってかけがえのないものが無くなる。
「主観」こそ、その人のカルマに固有性を刻印する。逆にいうと「主観」はかけがえのない「あなた」。善くも悪くも「愛の対象」だ。だが星そのものは自分ではない。星が自分を規定し、限定を課し、自分の過去、現在、未来を支配している。運命や宿命と呼ばれている。自分を超えた力が世界にある。それがカルマ。

よって人にあれこれ指示を出したり、意見を述べるというのが、その人自身のカルマの運行を考慮しないかぎり、不適当であるという考えもまた正しい。

すると、どういうことになるのか

人はさまざまなカルマの流れ、世の中の流れに乗っています。社会そのものもまた、カルマです。人生を北米/EU/日本で送るのは体験内容には大きな差があります。環境は、人生に大きな影響を与えます。自分のカルマを考えると、社会のカルマも気になるようになります。そして自分の居場所をカルマ的に考えるようになります。カルマの感覚を常に育成するという「この訓練」は地道なものですが、きっと大きな成果を出すに違いありません。

人は星に限界づけられ、支配されています。それは確かです。
そう簡単に、自分の欠点や宿命から逃れることはできません。
次の日から何か別なものにはなりません。

ですが、自分の限界点を知るというのも、ひとつの恩寵です。なぜなら過去のカルマには自分の悪も記載されているからです。借金をいきなり帳消しにできるわけがない。しかも人間はこの世に社会体験を求めて生まれて来ています。不自由そのものが、逆に必要な真実であるという可能性も高い。だからそのような色々な事実状況を考慮して生きるということそのものが、すでに「カルマの育成」であり、是であると考えることができます。

カルマは普遍化できない

社会のカルマは一般化できます。しかし実存的個人主義たとえば王子様の「繊細なこころ」に、一般的なカルマは通用しません。個人のカルマは千差万別であり、そもそも普遍化できない。だから「コレコレに沿って生きなさい」という教えが通用しません。他人はほとんど干渉できないし、自分の世話は自分でするしかありません。教義に従うということができない。つまりスタートは自分で切らないと、始まりません。これは深刻な問題で、魂の問題に受動的にしか対処しない人と、一方、能動的に対処する人で差が出てきます。

最終的にR.Steinerはこの差が、数世紀後に大きな社会問題を産み出すと考えていました。「本当に大切なことに向かい合う人」が、マニ教的な意味で、進化に向かうだろうと述べています。

個的な精神生活を能動的に開発できる、と考えなければ、何も始まりません。自分から星を見上げることは、無駄ではありません。小さな練習が自分のためになります。王子様も曰く:

「だけどあるんだよ。見上げてごらん、きっと君にも見えてくるよ」

2016年へ幸先が良い2つのニュースでした。2015年は戦後70年で、政治やマスメディアが駄目になっているのが明確になった年でした。この3年(2016猿、2017酉、2018犬)で世界で大きな勝負・出来事があるのではないか、とも思います。潮目が変わるというニュアンスがもし通用するのであれば、その潮目に乗るという事も大切でしょう。私たちの変化は2015年の夏秋から始まったように思います。3年半でどの程度世界は変化するのでしょうか?

本当の自分とは何か。それを認めてあげることが、他人をも認めるキッカケになるのだろうと思います。認めてあげなければならない人がたくさんいます。愛は誰もが必要としています。

私自身もまた偉そうに言う立場に全くありません。間違えば運命自身が私を訂正するでしょう。それもまた恩寵となります。

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