月と西王母

植物は発芽し、成長し、開花し、結実し、種を残す。

大地に根付き、光に向かう。熱と光の影響は大きい。

人間の思考は、生殖に根ざしていると思う。再生産を目指す為にエッセンスを白血球*に刻印しているように思う。(*男性の場合)

死ぬ事、大地に落ちる事とは一体なんなのだろうか。植物も人間も物質を捨てる。何のために生きるかというよりも、植物は生きているという状態に満足し、生命を表現しているように思える。 人間が考える事も何かのためであるのかというとそうではない。考えるのは見つけるような世界への触覚に過ぎないように思う。植物も人間も生命というものを状態的に表現しているが、種を残すということでは一致している。

植物はどのようにして月と関連しているのだろうか。そもそも植物は形態として、非常に多くの生の制約を受けていると思える。種になるということは、再生産を目指しているが、再生産とは内向きの行為。生命は生殖時に成長の最高点に達する。雌しべと雄しべ陰の力と陽の力が花として”ある”。花は実になり種が残る。種とは一体なんなのか。種が落ちる事で存在は死を迎える。思考は種のようなあり方を目指している、とは思わないだろうか。種が落ちるまでの瞬間、もしくはどのように思考が種になるのか、というようなプロセスが、自分には少し不明である。

イザナミ即ち西王母にまつわる、ウサギの伝説がある。西王母はどうやら月と関係しているのがわかる。ウサギは月でモチをツクのではなく、不老不死の薬草をツイているらしい。微笑ましい。

思考は、静かに、生を目指している。ただ、より内的な仕方で。智に比較できるような生を営んでいる。ニーチェ的なイメージでは泉のようなもの。本当のところ、この静観状態は存在がないことが、より平和だと思っているのではないか。

思考の素材性はそこでは問題にならない。月は古来より鏡であるとか言われてきたが、むしろ何もないものがある。存在がないという充足。存在するものが存在しない状態にある源が、月なのか。そこではデカルトのエゴは存在している。エゴはこの場合、ただ状態によってある。

少なくとも、月を愛する、という言葉は、この意味であるのだと思える。達磨大師は、壁に向かって何年も座し、ある月夜、突然改悟に至ったという。壁に向かって坐し哲学するという行為は、丁度植物が土に根を貼る行為なのだと思う。植物が根を張るように、人間も考えている。しかし今回で言う思考とは、根を貼るというのではなく、種を残す植物が大地に落ちる瞬間のあり方を、泉において見出すというような気がする。

思考に本来素材性がないことが、自然に思える。題材がない思考が一体何に基づいているのかは分からないが、性質という言葉で表せるのかもしれない。そこには目的もなく、状態だけがある。

物質と姦淫するという表現がある。思考にとって、物質や生が思考する対象であるかぎり、植物が根を貼るように、物質と関わっている。思考する対象がもはやない、という状態こそ、思考本来の生きるべきところ、思考の故郷のような気がする。

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