来たるべき戦い-オリフィエルの時代へ-

丁度GA266においてオリフィエルの記述が出てきたので、一時的に消していた過去の『黄金伝説と神殿伝説』についてのブログも復活させておく。(稚拙なログなので御容赦願いたい)

『・・オリフィエルが再び支配するとき、ひとつの目的に向かって意識的に働く先駆者たちである超感覚的な能力を持つ多数の人々を生じさせているだろう。このことは善き人種と悪の人種への分裂を生じさせることになる。・・・

善と悪とはまだ比較的未分化の状態にあり、肉の背後にあって誰が悪で誰が善かを見分けるのは難しい。主の力とそれに全力でかつ全ての意志をもって加わる人々の力、そして、妨害する神々やいわゆる不正な富(サタンとアシュラ)とその人間の追随者たちの力が人間生活と地球の進化にますます強力に介入するとき、善は神的な善へと発展し、悪は恐怖の反キリストへと発展するだろう。そのとき、私たち一人一人は世界の助力者を、そして、苦や悪を克服することによってのみ得ることができるすべての強さを必要とする。そのような認識によって人々をこの戦いへと召喚し、戦いの中で彼らに平安を与える、というのが神智学と薔薇十字会の目的である。』(GA266)

先日から「戦いとか怒り」そういうものはどこにあるのか、イメージしてきたが、今回は違った角度から踏み込んで書きたい。それが上記の「戦いへと召喚」について。以前にも触れた2400年から始まるオリフィエルの時代なのだが、今からたった400年後の時代に、すでに善悪の戦いが始まるというのは、今の感覚からすると、非常に近いと思える。すでにシュタイナーはそれ以前にも人類の変革に関して色々な事を示唆しているものの、今日はその現代的な実感を書いてみたい。

とはいえ、記憶ではミロク下生が2500年頃だったと思うので、オリフィエルの時代の雰囲気に、ミロクがロゴスの力を具現して、戦う事は、非常にマッチしていると思えるのは私だけではないと思う。

現代的な実感とは、この社会がいつ崩壊し、新しいオリフィエルの時代がどのタイミングで訪れるのだろうかという事。勿論私は霊視者ではないし、あくまで論だ。さて、前のブログでも書いてきたが、唯物論が悪を生み出し、現在の唯物論者のカルマが、将来人間を無力化し、一方唯心論者のカルマが将来超感覚的能力を持った人々を生み出す事は、書いてきた。

これは岡田茂吉のいう救世の概念を拡大したものだ、と言える。岡田茂吉の運動は大本教と同じように時代によって、多数少数の心を捉えた。『唯物論の打破』そして『善悪の立て分け』というのも代表的なものである。現在、シュタイナーの人智学のように、頭に訴えかけるというような方向で弘まったのではなく、それは”病気直し”というキッカケから民衆を漁(すな)どるものだったが、神智学観点からみれば、両者は同じなのである。結局のところ、唯物論と唯心論という大きな枠組みの中で、「ある人が精神性に目覚めそれを実践するようになり」そして「生まれ変わる」という事実から逆算する事なのだ。

何を言いたいかというと、結局はオリフィエルの時代に、もっと人類は立て分けられている、という事になる。現在はその次の時代への準備期間であり、今何らかの意識的反唯物論を身につけなければ、次の転生で悪へと堕ちざるを得ないということだ。

今、職場の隣の同僚も、私も、善と悪について、それほど異なっているようには、決して思えないし、事実、それほど異なり得ないと思う。しかし、現代において神智学や反唯物思想の特性を身に付けなければ、悪の側に堕ちるというのが、シュタイナー思想の隠された部分であることを見落とさないのが肝要に思える。

今、この思想の自由、何を信じても自由である時代で、そういう事を聞いて変だと思う人は、この自由という代償に何があるのか、多分、考えもつかないだろう。神秘学がカルマの事を語るのを聞いていると、この自由が、とてつもなく重いものであるように思えてならない。知的に誘導された唯物主義が、自由を謳歌して自由にあいまいな態度、甘い態度で生きるということが、後でどれだけ後悔することになるのか、とても信じられない。

これほど自由の怖さを実感できることは、ないのではないか。責任という言葉で片付けられる程ではない。自分が転落するか、より高い精神性を得るのか、まさに分かれ目であるという点で、この2000年を生きる世代は、岡田茂吉のいう救世の時代だと言って過言ではない。

で、『戦い』とは何であるか、それが今回のテーマなのだが、GA266にあるとおり、2400年での戦いが、本来的な戦いなのだ、と人智学では語ることが出来る。それまで人智学者、神秘学徒は努力し続けるに間違いない。そして岡田茂吉のような世界観の人間は、現代がその主戦場であり、運動と信徒を拡大する事が、戦いなのだ。しかしながら、両者は2400年を目指しているのは、明らかであるため、私は『戦い』とは2400年であると思って間違いないように思う。

では今後どのような展望が拓けるのか、そういう意味で書く。

現在は社会がまさに大きな歯車として、民衆を総動員し、大きな混沌が産まれている。社会というものにしゃあない、として対応する人も多い。それに責任を問うにも、酌量の余地はあるだろうと思う。それはちょっとした戦争のようなものだと私は思う。大義が分からないまま、戦場に配備され、つまり「社会に適応するして生きること」しかできない。しかしながら、社会で必死に生きて行くうちに、ある閃きのようなものが産まれてくる。それがシュタイナーでいう、他者への目覚めや霊的能力の発現である。それが今後数世紀に渡って先駆的な光になる。シュタイナーは1900代の半ばまでにそのようなエーテル明視を得る人を予言して他界したが、本当のところどうだったのかは分からないままだ。しかしどちらにせよカルマを意識した生き方や物事への霊的な素質に恵まれた人が現れるのは、確かである。

それを現在の社会で、私はある、と思える。それが今、40代位以降の日本の人々に起こりうると考えている。もし騒がしいバブルが起こらなければ、状況はもっと容易だったのだろうと思うが、それでも良い可能性があると思う。勿論もっと若ければ、もっと素養があるようにも思えるものの、おおまかな見方としては変わらないと思う。

社会はそんなに容易には変わり得ない。だから2400年まで随意そういう状態が続くのか、という問いが残る。そこで、フリーメイソンの問題が、見えてくる。現在の社会状態がどのように変わるとしても、いきなりオリフィエルの時代に突入するわけではないように思う。もっとうつ病の人が増え、自殺者が増える。それは唯物論がカルマ的に影響を及ぼすのだから。

フリーメイソン問題は岡田茂吉が面白い結末を描いている。それは終わる、と。フリーメイソンの世界建設思想、および結社のユダヤ思想は、どこかで終わりを迎える、と言っている。ではそれがどこなのか、それはオリフィエルの時代のような善悪が入り乱れた状態以後に起こるものではない、そういう文脈の流れがあるように思う。つまり、現在のこの平和な?社会機構が、いつ崩れるのかは、フリーメイソン体制と同時的ではないのだろうか、という事だ。現在よりも20年先にはもっと機械的、遺伝子的、医学的に、物質社会は簡便に快適にスマートになっている。それは先に進むしかない。現在のBIOの流れは人智学の功績も大きいが、物質文明は歯止めがかからないし、また止めるべきものでもない。岡田茂吉はそれを最終的な1点まで続く、と言っている。

フリーメイソン問題がどこで終わるのか、2100年にはまだ終わっていないだろうと私は思う。だから、この社会の歯車的な機構は悲しいが存続し続ける。我々の次の転生が、2200-2300年であるならば、その時には終わっているように思う。そのフェーズが来てから、オリフィエルの戦いの時代に召還される、善悪がある程度FIXした時代が来るように思える。

このような考えは、すでにドイツの人智学でされたかもしれない。しかし、日本の40代以降の実感としては、上記のとおり新しいものが始まる可能性がある。それに今焦点を当てるべきではないかと、そう感じる。

なおフリーメイソンは、どこまでも時代を造り、社会を建設し続ける。それは彼らが何かを知っているから。どのように社会を導けば優位に立てるかを霊的地政として知っているのだから、現在のところ終わらない。終わるというのは、万人に霊性の台頭する地点であり、それが彼らの限界となる。オリフィエルのような霊の時代では彼らの力は発揮できない。彼らは女性的な霊性には敗北する。現在彼らに有利なのは、勿論、インフラと経済が同一になっているという社会状況もある。雇用を生み出し、社会を建設するものは、便利で優遇される。現在インターネットや携帯電話に多くの経済効果があるのも、彼らを後押ししている。

最終的に「何が戦い」なのか、イメージは2つある。1つは2400年以降の視野に立って、唯心主義即善であるという個的な能力を高める事。今ある「自由」とはミカエル主義でいう完全な自由であり、それによって人間が善か悪か決定的な時期だと認識できる事。2つ目は、この社会という中で、フリーメイソンや巨大な機構、会社組織、そういうものに巻き込まれる必然の状況でも、霊的な閃きは得られる、という立場で生きること、そしてその可能性もまた個人としては大きい事。むしろその閃き以上に何かこの社会で個人的価値があるのかと、気づくことではないのか、と。

快適な社会状況の中で、怒りが育つ事がありうる。それが正義感であるなら、そこから怒りが精神的な能力として刻印される事もありうるのではないか、と私は考える。けれども、容易に怒ることに全く意味はない。むしろ個的な自我にとって、自由こそ快適さの根源であり、多少の自由-快適さが拒否されても、まったく大目に見る事ができないならば、それこそ自由人ではない。怒りをできるだけ拒否し、勝手に生きるという美学(凄味)がなければ、プロパガンダによって全体主義に流されてしまうだろう。そうなる事に何の意味もない。

戦いはどこにあるのか、むしろどこにもない。来るべき戦場が示されているところに戦いがある。そこに招集されるよう、自由の中を生き、霊の道を歩む。同士という言葉があるなら、その戦場における霊的なものを前提にしなければならない。そういう意味で人智学も岡田茂吉も同じ事のように思える。もし自分がその戦場に立った時、真に有能でありうる事ができるだろうか。その時、地上には人智学も救世運動もなく、全く個人的な能力を求められる。その能力とは今、この自由に裏打ちされた時代の成果がそっくりそのまま映写される。

慈悲という言葉が思い浮かぶ。人間にとって善か悪かという事ほど、大きな問題は無い。今現在居る人間が善か悪かという事が問題なのではなく、善悪紙一重に存在している人間に対して、無差別に善への道を形成すること、これが岡田茂吉も神秘学も教えるところにある。それが救世であり、人智学の使命であることこそ、慈悲の現われではないだろうか。そういう存在が天上から観ているのである。それが人の横に居られる。

今生の事に意識が制限されるままでは、せいぜい看板くらいしか問題にならない。知的な能力はそのまま来世にも拡大されうるという”抽象”が理解できなければ、カルマそのものの概念に意味はない。古人は素朴に輪廻を語ってきた。今、時代を逆算して、考えないと正しく今生を理解する事ができないように思う。むしろ、人の横に居られる存在に触れる、その力を全力でつまり抽象を用いてまでも得ようとする事に意識が向けられるべきではないのか。

現在起こっていることは、未来から逆算すると色々な視点で観ることができる。その時、何が重要でないのか、何にこだわるべきでないのか。少なくとも眼の前にある善や悪は実に取るに足りない差でありうる。はたらくとは何か、同胞とは何か。

もしかすると、そういう見醒めが慈悲の存在によって、慈悲の事実によって、起こりうるのかもしれない。

 

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