社会論に対する私の違和感

『初歩的な神秘学徒は、より良い外的な条件を創造することで世界が改善されることはない、という証拠を集めるように努めるべきである。神智学が私たちに告げるのは、社会秩序は人間によって創られる、それは人間の思考と感情の結果である、ということである。したがって、人がやるべきことは、思考と感情を育成することであって、社会秩序を変えることではない。神秘学徒は問う、変えられるに値するこの条件はどこから来るのか?と。そして、彼は、もし、この条件が自然によってベールをかけられているのでなければ、それは彼より前に生きていた人々の思考や意志衝動によってもたらされたのだ、ということを理解する。現在の条件がそうなっているのは、彼らがそれらを彼らの不十分な思考や感情を通してそのようにしたからである。・・・

我々はここで秘教主義における最も重要な言葉、「魂を高貴にする方法へと到達しなければならない。有益な発展を達成するためにその思考を使用する者は、まず人間の魂を高貴なものにするよう配慮しなければならない。」という言葉へと到る。』(GA266)

最近、社会に関することを考えるようになって来たが、色々とその上で、抵抗感があった。岡田茂吉、シュタイナー、人智学とか、そういうものがそういう社会とはどうあるべきなのだろうか、というのを考えさせたのかもしれないし、偶然私が社会について思う事があったのだと思う。『黄金伝説と神殿伝説』や色々なシュタイナーの職業についての講義も、一端があったのだと思う。そして自分を考える上でも、社会の未来には興味があった。

ただブログで自分の事を書いたりするのは、いわば自由であるものの、自分の”過去”が消え失せるような気がしている。このGA266では人は永遠の領域に生きなければならない、と説いている。未来というものではない。永遠という領域に、呼吸することの大切さを優先すべきだと感じる。そういう意味で、社会とは何かを分析し始めると、いちいち判断せざるを得ない。それが妥当だとしても、どうしても外的にならざるを得ない。社会とは外的だが、私は内的でありたい。つまり外的な思考に自分の時間が浪費されてしまう。

社会は現実のものとして外的に存在はしているものの、システム、抽象、理想、問題、色々なものは、内的な生とどう関係あるのか、たとえば”永遠”とどう関係あるのか。

10年経って、ある人が禿げ、ある人が死ぬ。そういう流れの中に私も生きている。そう考える時、私の過去とか、夢、そういう事にも”価値”がないような気がしている。永遠の反映があるだけである。

上手く言えないが、社会が具体的に意識に昇るとしても、その複合体はそれだけのことでしかない。上記に挙げた文章の中にはこういう記述がある:

『精神科学にはあれこれのことがあちこちの地点でなされるための特許化された方法がある、ということではなく、誰かを評価する、ということでもない。もし、基本的な真実に浸透されているのであれば、正しい判断に到るであろう、と確信しているだけである。そのような真実のひとつとは、貧困、悲惨、そして苦しみは利己主義の結果以外の何ものでもない、ということである。人はこれを自然法則のように見なさなければならない。私は個人的な報酬を受けるべきだ、それは私が為す仕事への報酬である、という原則にしたがって生きるやいなや、人は利己的になる。神秘学徒は仕事が本当に生命を支えるものであるかどうかを自分に問いかけなければならない。仕事は賢く導かれなければ取るに足らないものとなる。人の役に立つものが生み出され、造り出されるのは、人がその中に注ぎ込む叡智を通してだけである。』

ブログでも取り上げたがシュタイナーは、現在の社会では、機械の歯車のように、人は職業に対している、というような事を述べているが、この文章を並行して考えるに、誰も自己の職業に対して、完全に責任を負えるのだろうか、と考え着く。

自分は人が職業を受けとめる程度にしか、社会を受けとめていない。そこに責任を観るというのは、段階があってのことだ。最初の『人がやるべきことは、思考と感情を育成することであって、社会秩序を変えることではない。』とまで私は言えないが、少なくとも内面という地盤がなければ何もないことは分かる。社会を考えるにあたって、色々な不具合に出くわすものの、それが問題であるというよりは、問題ではないと言い切ってしまったほうが健全になるという気がしている。

個人が受けとめる事が出来る範疇にある具体的な事柄で無い限り、それは行ったっきりの、小舟ではないか。そしてそれが社会を少し改善できたところで、それっきりのことではないのか。下らない事と見做せるのか、取るに足らない事と見切れるのか、であれば、何が本来的なことなのかと言う事になる。

個人にとって本来的なこと、それは個人の課題を達成すること以外にはない。個人的なことであれ、社会的なことであれ、それは個人的な課題ではないのか。

『・・・仕事が本当に生命を支えるものであるかどうか。仕事は賢く導かれなければ取るに足らないものとなる。』

取るに足らない仕事など、いくらでもありうる。『より良い外的な条件を創造することで世界が改善されることはない』という感覚をどこまで持つ事ができるのか、何か社会的なものを問題にする時、この箴言のようなものが、徹底的にないと自分に負ける。

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