シュタイナーの社会論と意識魂

昨日購入した本は、「シュタイナー社会論入門ーシュタイナーにとって社会とはなにかー(高橋巖『社会問題の核心』集中講義)」なのですが、高橋巌氏が最近「ベージックインカム」に取り組まれているようなので、いずれ参考にするつもりで買ったのです。

これまでは高橋巌氏の本を、とても判りやすい本だと思っていました。しかしこの本を読むのには私の感情や生き方がものすごく抵抗します。

高橋巌氏のこのような語り口を読むと、この方はどうしてしまったのだろうか、と本に嫌悪感が出てきます。どういう事かというと、よく判りませんが、凄く賢くなってしまったというか、記述がリアル過ぎて、つまりグロいという感覚に近くなって、嘔吐しそうなのです。的外れな意見は流せば済みます。正しいと、聞き流せなくなります。一行一行が、聞き流せない。リアルさの度合いがベトベトしているので、自分を巻き込むのです。

ニーチェは単なる読書など存在しない、と言いましたが、この本を教条主義的に読めば、難なく読めるでしょう。”教養”として。しかし自分の内官に照らし合わせながら読むと苦痛があります。

例えば、この本に対して、こういう意見があると思います。:「これほど現実に向き合って、貴方は何をしようとするのか?」別の言い方では、高橋巌氏の判りやすさが度を超えてしまい、問題のひとつひとつがかなり実感できるので、今度は自分の中の何かが呼び出されます。

高橋巌という人は、賢過ぎてこんなにもベトベトな領域に行ってしまったのか、とこの本をいやらしい本だと思ってペラペラと読んでいます。

生き方探し、と、生き方とは違います。教条や理想主義は、生き方探しではないでしょうか。ふんふんと感心して、理想を心の中に取り入れます。生き方は、与えられた現実との格闘です。今すぐ、自分の姿勢が求められます。お前はどう生きるのか、と。

その意味において、この本は私には結構な毒です。この本には問いが満載です。その本に対峙するというのは、今の私が問いつめられるような錯覚に陥ります。この本の著者として、この様々な問いにどう対峙されているのでしょうか。すでに政治運動を開始しているとか、そんな事はないでしょうが。

現代人なる一個人としては、結構共感ができる本なのですが、社会意識という何かわけの判らない何か、つまり歴史や意志を含んだ総体のシステムを考える上では、ニーチェ的な”否”を唱えないわけにはいかなくなります。個体主義が出所不明な何かに汚染されることに、虚構があると思います。社会論というのは、理想主義でなければならないという気がするのです。それは今の若者でも感じれるような、日常の議題であっても良い。この本には若者でも判るような徹底したリアリティーがありますが、理想主義ではない。(勿論、それを想定している本ではないと思うのですが)

以上のようなことを述べるのは、おそらく、個人が社会に対する責任を持つべきか、という事を、私が理解していないからです。個人が社会”一般”に対してどこまで責任を持つのか、ということです。ごく近い人間関係ならば、それはあり得ます。しかし”まつりごと”に私が責任を持っているのが前提だとされると困ります。

責任感とか使命感にも色々あると思います。もし選挙権を持っているから、私は社会に責任があるのだというのなら、笑止です。では責任はあるのか。私は極論的に、ない、と思います。社会がああだとか、常識がこうだ、とか言って、個よりも何かが上に立つことなどありえない。少なくとも意志がなければ責任もない。責任感とか使命感というのは、奉仕しようという事です。奉仕するのに、得体がよく判らない”社会”では困ります。社会は意志の集まりだと思うのだから。大概の人は、私にとって縁のない人です。そんな人にまで、社会論がシステム論として適用されるのでしょうか。少なくとも、仕組みを適用するかどうかは、当事者の人の意志次第ですから。

枠組みとして社会を語るのは大変ポジティブですよね。ただ、社会、社会、社会、といっても、中身が見えない。だから社会と個という意味で、個に対する社会としては存在力が弱い。せいぜい法的な根拠とか、システムという”抽象”にすぎない。逆に、存在力や理想主義があるなら、個は社会を承認できます。意志の世界なのです。

本書の高橋巌氏の個人的な感想や逸話はとても面白いものです。社会をインテリジェンスで把握する、そして巧妙な語り口に騙されない、そういうものも勿論必要です。社会問題を語るということは、問題が何かを見通している、という事ですし、例えばフリーメイソンのように、設計図どおりに世界を構築しようという態度でも、まずその設計図を見通して仕事をするわけですから。

死んだ社会意識、というのが本当のところなのかもしれない。それぞれが社会感覚は常識的にありながらも、意志が死んでいる。そこに経済やまつりごとを考えたとしても、個人意識まで訴えかけられるものではない。希望や理想がないと、人は積極的に歩みを始められないのではないのか、という気がします。

最後に考えるのは、「支配」ということです。誰が支配しているのか、誰が食料つまりお金を支配しているのか、そういう支配を人は他人に渡したくないわけです。ですが、個人の「支配力」を肯定的に考えられないか。例えば韓国経済を海外資本が牛耳るということが、実際にあるのであれば、それは不正であるように、少なくとも当事者が健全に生きられる「支配」が当事者になければいけないという意味で、個人の状況に対する支配力がなければいけません。個人は他人を支配できません。しかし当事者たる個人は社会つまり生きている環境に対して、健全な支配力を持たないと、嘘です。結局のところ、支配権が誰にあるのか。訳の判らない海外の誰かであったり、マスメディアだったり、政治による国会議員であったり、自分以外の誰かに勝手に生きる状況をコントロールされる筋合いがない。「支配」という言葉をあえて使うのも、歴史的に見て、面白いからです。国王(地域政治)から銀行家に権力が移った近代から支配力はお金つまり銀行家が持っています。「力や戦争」による支配から、「お金」による支配へ移りましたが、その間に個人の権利などが発達してきました。意識魂の時代ではお金というものではなく、個人そのものに「支配権」があるのが本当ではないのでしょうか。やりたいようにやれば良いと思うのです。

個の要求は、社会的なものに限らないわけですから、精神的にある程度満足していれば、社会的なものはどうでも良くなります。そもそも仕組みは外的なものですから、仕組みは個人にとってそれだけ精神的には小さな事です。

社会やお金に抵抗しても無駄だ、「お前はそうしなければならない(汝なすべし)」という声に対して、「我は欲す」という意識的な個の支配を実現しなければ、敗北です。無駄であるというプロパガンダから自分の支配権を獲得しなければ、ニーチェ的な価値の創造はありません。

岡田茂吉が善人連盟というものを提言していたと思いますが、それは社会悪に個人でいくら対抗しても難しい、というものです。それもまた何らかの共同体なわけですが、肝心の岡田茂吉のグループも、そういう事に関心がないように思えます。宗教な方向に行ってしまっていますから。逆に岡田茂吉を社会運動として捉えるというのも面白いのではないでしょうか。宗教の枠組みだけではできないこともあるでしょうし、思想家として捉えるのならば、例えばシュタイナーのようなとても近い立ち位置の思想もあるので、昨今のコラボレーションブームのように、機構として善人が結束できるグループがあってもいいような気がするんです。

共同体ということであれば、昨日の講義のような共同体内での個人体験のあり方も意識魂の時代からすれば可能でしょう。岡田茂吉のいうような、”意志”としての善人連盟は、それ自体は「慈善団体」として受け取られるのかもしれませんが、フリーメイソン同様に岡田茂吉思想は「世界建設思想」なのですから、いわゆる単に寄付したりする思想ではありません。この意味で救世教とか秀明会とかの限定がかかるわけでもないので、利権が絡まなければ、ハンドリングとしてはbyシュタイナーだとしても問題ないのかもしれません。

結局のところ”社会意志”の問題なので、善とか悪とか判別は一切できないですが、社会善が拡く行き渡って欲しいというのは、犯罪率が低い日本なら当たり前な感覚のような気がします。岡田茂吉の宗教家らしい提言ですから、全然社会論ではないですが、その岡田茂吉だってフリーメイソンに言及している位ですので、社会の未来に無関係ではないように思います。

看板はなんでも良いような気がしますが、一番大事なのは”人”ですよね。いくら”共同体”といい、”理念”といっても、そこにいるのは魂ですからね。。看板の下の意志までも、リアルに表現できること、それが実感となって、全体主義という得体の知れない暴力(それが教養とか常識とかいう仮面の下で他人にまで何らかの干渉を及ぼす事が出来るという錯覚)を打破できる、という”当事者達の固有の宇宙”を肯定する感覚を意識運動として表明したいところでしょうか。

QR Code

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

スパム対策により、日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。