フリーメイソン論の個人的回答

前回は「社会的自由こそ、霊性に相応しいもの」と書きました。確かにカインとアベルの立場に共通のものが見出せるというなら、物質界でのそれは、社会の真善美であって、マクロコスモスが生み出す調和です。それはどんなに幸せなのでしょうか。しかしながら、言葉にするとそれは陳腐です。

このブログを書きながらこうも思いました。結局は人間ひとりひとりの思想の善化が大切であり、大きく結果をもたらすのだと。確かにそれは真です。もし唯物論でカルマ的に人間が悪への傾向を身につけたとしても、彼を差し戻す事ができます。数と自然の論理から言って、大局的善ではあります。以下GA132から引用:

『「この地球の上で幸せになりたいって?そんなことを言うやつがいたら、ほとんど、恥を知れ!とでも言いたい。すべてが死で終わるところで、そんな目的に向かって努力するな んて、いかにも先が読めない、ご立派な人間がすることだ。」(ハインリッヒ・フォン・クライストの言葉より)』

現世を考えるとそうかも知れません、シュタイナーはカインについてこのようにも述べています。

『そして、カインもまた彼の犠牲が受け取られなかったのを見たのですが、地球における人類進化の出発点を指し示すこのカインの拒絶された犠牲は、カインの魂を捉えた古い「月」進化の基本原則の繰り返しであるかのように現れます。』

『この過程に介入する唯一の方法とは、この際限なく続く像の流れの中に何かが参入する、ということですが、それは像以外のものによって、すなわち、現実によって、あこがれを購うことができる何かです。言い換えれば、私たちの「地球」が惑星的に体現した相状態、そして、そこでは運動霊の 活動によって導かれる像があこがれを満足させるのですが、そのような相状態は、「地球」として 惑星的に体現した相状態、つまり、「救済」の相と呼ばれるべき状態によって置き換えられなければならなりません。
実際、これから見ていきますように、ちょうど「地球」以前の体現である 「月」存在が「あこがれの惑星」と呼ばれ得るように、そして、それは無限に続き、決して終わることのない経過を通してのみ満たされ得るあこがれですが、「地球」は「贖いの惑星」と呼ぶことができるでしょう。私たちがこの人生を通して地上的な意識の中で生きるとき―そして、その意識 は、既に見てきましたように、ゴルゴダの秘儀による贖いの行為を私たちの前にもたらします―贖いへのあこがれを絶えず生じさせるものが私たちの魂の奥底から生じてきます。』

つまりカインにも見られるような無意識の「あこがれ」の結末は、運動霊によって、ゆりかごのようになだめられました。そして、それがこの地球で終焉するのです。それをシュタイナーは贖罪、救済と呼びます。またそのように神に受け入れられず、「あこがれ」によって、深く傷ついた存在は、こう描写されます。

『そのとき、そこにいるのはその実質が自分自身の起源から疎外されたことを示しているような存在たちです。もし、このことを注意深く理解するならば―もし、それ自身の起源からの疎外がその中に潜んでいるような何かについてのこの考えを注意深く魂の前に置くならば―それは死についての考えである、ということが分かります。・・・そして、死の真の意味とは、本来の場所に居るのではなく、本来の場所から排除された状態にある、ということに他なりません。』

今まではフリーメイソンが外的なものである、という様に書いてきましたが、それが人類共通のこころの側面を持っていると考えると、我々もすでに仏教が持つカルマの教えの中の上記のような苦悩の部分が救済されなければならない、と考えるでしょう。

ここでカイン=唯物論、アベル=霊性、であったにせよ、アベルは神に供物を受け取られるにせよ、日本人(およびモンゴロイド人種)が、西洋人種とは違うにせよ、この救済には人類全体のものかどうか苦痛を持って考える必要があります。実際、カルマを持つという事は、この救済とどう関係しているのか、と。

カインを悪の問題と考えられるように、我々に巣食う「あこがれ」の問題とも考える事が出来ます。

この部分で、悪を考えるように、シュタイナーは考えています。悪を考えることは、人智学の宿命です。岡田茂吉は悪を善化するという「カルマを変える」方向に動きます。それではカルマから悪を減らせても、今、この「あこがれ」を意識化するということはできません。悪と向き合うのは当然良いことです。刑務所で心底改心するのは、こころの問題です。しかし外的に善いことをするというわけではありません。これをどう解決するのかは、人生では簡単なことだと見做すことはできます。人は熟練して人生の処世術を身につけます。懺悔するのも必要ですし、他人を喜ばせるのも必要です。懺悔は認識問題であり、深く孤立し縦型となります、善の実践は愛、経型となります。

もし、人間の本質や意味に至ろうとすれば、認識の道に行かざるを得ない、という事でしょう。それはどんどんと贖罪を突きつけられます。もしかして、それはエゴではないのでしょうか。自分の認識が問題なだけですから。他人の認識問題は当面別人格ですから、責任?というものは各自にありますし、尊厳は侵さざるをえないものです。しかし愛は歩み寄ろうとします。ルシファーという霊界の自己認識の道は、エゴです。しかし知性はそこを通らないと”納得”ができません。愛のほうが偉大にも関わらず、知性はエゴによって贖罪にまで至ります。

キリストは不思議な存在に思えます。愛を説きながら、贖罪するのです。愛に、贖罪は不要ではないでしょうか。愛がありながら贖罪するのは、親が子に教えるような救済の教えです。母性的な愛というのでしょうか。他人がもしも、無関心でよい対象であったなら、他人のために贖罪はできないし、死んでみせることもできません。赤の他人のために死ぬ事さえ厭わないような同情愛であり、キリストそのものは自分に負のカルマがないので、自己救済の要素がない。その位愛が偉大になれるという典型なのでしょうか。

キリストとはアベルやセトに対し罪を諭すのでしょうか。そういう存在ではないと思えます。キリストと善のヒエラルキーとはどういった関係なのでしょうか。神=摂理=秩序は自由とは関係のないものです。善は摂理によって実行されても、自由によって実行されても、結果的には同じです。そうでなければ、歴史とは無意味なものです。

キリストはおそらくカインを赦すのではなく、地球のカルマそのものになります。ですので、カインはキリストではない。フリーメイソンの贖罪/改善とキリスト存在はやはり別のもののように思えます。

そして、シュタイナーが悪を認識するように説くのも、西洋社会が愛に向かっても、偽善に向かわないようにするためではないでしょうか。愛の実践と偽善は両立する事ができるからです。慈善活動と魂の本体とは違う、と。救済は自我=心からの贖罪によるのなら、それが本筋です。

岡田茂吉のフリーメイソン帰結は、ポイントはユダヤの改心にあります。イエスは贖罪主として描かれていますが、それとシュタイナーのキリスト存在を重ねあわせるのは、私にはこれ以上、不可能です。

地上の人間が罪を償う事ができるのは、死のみです。 (←聖書:神が受け入れられる捧げ物とは、すなわち罪を贖うべきものであり、それには動物の血が流される必要があったのです。なぜなら、「罪の支払うべき報酬は死であり、命は血の中にある」からです。エデンの園においても神はアダムとエバに毛皮を着せることでそのことを示唆されました。新約聖書ではアベルは「信仰によってよりすぐれた捧げ物を捧げた」とあり(へブル11:4)、また彼は「義人」と呼ばれています(マタイ23:35)。すなわちここでも神に受け入れられるポイントは信仰にあります。アベルは神の言葉を聞いて、信じて、それに従ったのです) キリストという「神霊」が死んだ、という行為は、そもそも人類にとって何を償ったのか、上記シュタイナーの「あこがれ」も理解しないと、贖罪がぼやけます。ここでフリーメイソンについては終わりにします。というのは、冒頭のH.V.クライストの言葉のように、社会に自由をすればいい、とか、地上で幸せになりたい、という主張の為に書いているわけではないからです。

カインがルシファー(原罪)の影響を多分に受けている事は認められます。それがキリストと関わってくると、人類の担い手としてのルチファーやエゴの問題と多分に重複し、今度はキリストも問題にしないといけません。そしてセト(祭司文化)の系統と霊的ヒエラルキーは自由とどういう関係にあるか、コメントできなければなりません。しかもキリストは教義ではない。行いによって検証されるべきものですから、キリストがヒエラルキアとどういった関わりなのか、フリーメイソンを外的に特徴づける行為と遠く離れたところにあります。

ルシファーが通過する”納得”を得る行為は、受け身の対応とは違います。言われた事を忠実に実践する事(祭司文化)に対し、それは異なるのかもしれません。しかし忠実に実践しようとする必死さがあるのならば、意志の現れです。どちらにせよ、意志が問題なのだ、そして必死な人間の中に存在する高貴な意志に善も悪もあるのでしょうか。それは個人が持つ価値衝動ではないでしょうか。もしカインとアベルが現代において戦うと認識するのであれば、幅広い意味であって、卑劣も入り得ます。知性は卑劣でもありえますが、戦いにおいて卑劣であることと、意志の格闘美とは異なるものです。シュタイナーが秘密結社の卑劣性を問題にしたところで、精神的なことではありません。人生で卑劣なことに出逢うのと同じように、拒否し事態を引き受ければよい。幅広い意味で歴史に向き合うのであれば、今、当面の問題は精神的なことであり、エーテル明視やカルマのような個人的に繊細な作業であって、それこそカインとアベルのような問題の焦点を引き受けることができるのではないでしょうか。

(もともとカインとアベルは大局的なカルマです。解決がもしあったとしても、なかったとしても、反映です。変数と定数です。)

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