霊性のある社会:『聖杯の探究』

『聖杯の探究』という長い一連の講義でシュタイナーは聖杯という、万人に与えられている復活祭の象徴を解いている。それは三日月おいて、月という天体が、聖杯の形をした光の杯の部分と、闇である太陽神(キリスト)の部分からなる、という直感に基づくものだ。

フリーメイソン伝説を読み進めるうち、それがエロヒム同士の確執になっていることは、理解できている。しかしキリストという神霊は何故贖罪するのか、キリストとはフリーメイソンに関連するものなのか、キリストとはエロヒムの何なのか、という事についてはまだ曖昧で、この本は多くの手助けとなってくれている。

EVAは即ち転化するとAVE(マリア)となる。何故2柱のエロヒムがEVAを捕りあっているのか、瞑想訓練してもよく判らなかった。しかしシュタイナーはEVAとはこの本で”地球”としている。これでやっと意味が判る。2人のエロヒムはこの地球なるエヴァを捕りあっているのである。だから、フリーメイソンは地球の王として制覇しようとするのである。だが、シュタイナーのこの講義を聞いていると、ヤハウェとカインの父の確執が見えて来ない。同一視して良いわけではないだろう。(この部分で、ヤハウェの特性がエロヒムであるものの、月の神である、という謎となる。)

この聖杯という理想そのものが、未来の咽頭から生殖できる力に基づいており、決してフリーメイソン問題から切り離すべきではないのに、カインの父に触れられていないのは、仕方ない。

この講義で言われている処女マリアとキリストの関係は、フリーメイソンを考慮すると、私ならこうイメージする。つまりカインとアベルという男性が、マリアという女性に好意を抱いている、と。つまりここで言うキリストは、男性とくに青年若年であり、カインにもアベルにも当てはまる。だから女性を求めていると。

シヴュラとキリストを考えるにあたり、この場合のキリストは、偉大な神霊であり、マリアと関係している男性的キリストではない。つまり、こういう事が一番妥当だと推察する。男性的キリスト像とはカインでもアベルでもなく、両方の像的なヴィジョンであり、キリストが誰になるか?アベルの系統なのか、カインの系統なのか、という風に問題を捉える事はできないだろうか。

つまりマリアと結婚するのがキリスト(花婿)であり、キリスト(花婿)とはカインなのかアベルなのか?そういう図式が成立できそうである。(祭司文化はアベル)


 

『第三ポスト・アトランティス時代には、地上の人間を司る力によって、まだ秘密を受け取る事が出来ました。
地上の職務と結び付いているものを乗り越える可能性を見い出す時、神聖な秘密が、純粋で無垢な心魂の力にのみ現われる時代がやって来ました。人智学は、地上の職務から疎遠になろうとしません。しかし、人間は、地上の職務から立ち上がらねばなりません。古代の占星学の時代には有効であった地上の職務から、立ち上がらねばなりません。新しい方法で、古代の秘密に精通しようとするなら、立ち上がらねばなりません。あらゆる地上的なものから自由になった、無垢の心魂の力によって、人間は立ち上がらなくてはなりません。』

第6講『天空の聖杯』のこの部分はやはり私には含蓄あるものです。第三ポスト・アトランティス時代(エジプト−カルデア期)は現在の社会状況をカルマ的に創ったものです。その当時、神霊存在を星から読み取り、その調和の下で人間は物質世界を変え始めるために、職業生活を導入しました。今、シュタイナーは職業生活の上に、自由な霊的活動を置かねばならないと言っています。

私達が育成する人智学は、新たな聖杯の探求です。かつて、意識下の心魂の底から語られたもの、次第に人間の意識の中に現われて来たものの意味を、知ろうと試みましょう。それを次第に意識的な言葉に変えようと試みましょう。「地上と天空の関連を解明出来る叡智」を、築こうと試みましょう。古い伝統なしに、現代に開示される叡智を、見い出そうと試みましょう。

つまりシヴュラのような曖昧な霊界の啓示ではなく、この地上の霊界の啓示を意識して読み取ろうということです。シュタイナーによって巻き起こった人智学は、解決をもたらさなければならないでしょう。個人で必死に解決していかなければ、誰がそれをしてくれるのでしょうか。そうでない限り、宗教であり、教義にすぎません。実感が伴わなければ、誰が納得という石を自分に運んでくるのでしょうか。必死さは当面、ドグマとはかけ離れています。誰かの話を聞いて、受動的に眠っている魂ではなく、自発的に自分のカルマや周りの状況の見通しを切り開かなければ、ミカエルは決して個人に語りかける事はできない筈です。

シュタイナーが最後に、キリストは東洋の地下に移ったという言は、それを言う必要があったのでしょうか。『光は東方より』というこの言葉は、何の文脈で語られているのでしょうか。この言葉の解釈を巡って、岡田茂吉のそれが大きく関わるであろう事は明白です。

やがて、地上の他の信条が、キリストの衝動に貫かれる時に、私達に告げられるものを、誤解せずに理解出来る能力を、持ちたいものです。』(この講義の最後の一文)

やがて、とは”いつ”のことでしょうか?

東洋、とは”どこ”のことでしょうか?

シュタイナーは明白に準備をしているのです。無意識的な東洋の霊的復活が西洋人智学の意識に告げる告知を待っているのです。彼は『光は東方より』という西洋人の民衆の心を、大変問題としています。それに対して、彼は解答を与えていないのです。最後のこの暗示は、聖杯の探究に対する答えではないでしょうか。聖杯探究という運動の末に、いつか東洋の(キリストの衝動で)意識化された霊的な光に出逢います。

キリストとは何であるか?それは地域的ではない霊的な感性ではないでしょうか。ここでいうパルツィファルであり、素朴な感性から霊化していく、時代の必然であるという気がするのです。

もしそう考えるならば:

アベルは素朴な人間であったのかもしれません。カインはそうではないものの、知性によって行く未来を予想できているのです。今、アベルにもカインにも、同じように霊性が訪れます。私の私観ですが、アベルに罪がありません。この霊性の長は、シンプルに賢明に生きているのです。それに較べ、カインは知的にグロくしかし繊細に生きています。アベルが知らずに起こした罪、カインの複雑極まるカルマ、そういう流れでこの戦闘に決着がもたらされるのであっても、霊性は産まれます。勝ち負けの基準はどこにあるのか、両者の立場はとても微妙なものに見えます。結局は人類は霊性を迎えるのは善いでしょう。ただこの巨大な社会というものに対して、両者の一致した利害はあるのでしょうか。そう考える時、アベルもカインも、敵ではないことになります。問題なのはこの社会が背負っている、非霊的な部分だけです。このマクロコスモスが潜在的に持っている、体制的な虚偽であり、過去の亡霊が出現し、利権が先行したパワーゲームです。とすれば、社会的自由こそ、霊性に相応しいものであり、カインとアベルの対立は現実的に無くなるのではないでしょうか。

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