人生の方向転換その②

その①のカルマの件について書いてみます。

先日のフリーメイソンについては、あのイスラム国問題もあって嫌気がさして書いたようなものですが、現在の心境は、もうどうでもいい、です。イエスとキリストの区別をするならば、イエス=ユダヤ(つまりスサノヲ)の王が贖罪する事は、キリストというエロヒムとどういった関連があるのかも、キリストインパルスからすれば、問題的に別の案件として一旦処理しておきます。

そして社会論ですが、それも同様に、どうでもよいと思うのです。カルマ論としては重要なのですが、最初の前提としては、現在の社会状態を憂いたとしてもそれが何になるだろう?ということです。畢竟、この世は浮き世であり外的なものです。社会という”機械”に私が憂いても何にもなりません。今日たまたま図書館で高橋巌氏が「ベーシックインカム」に興味を持っているような記述を目にしましたが、勿論非常に生き方を変える筈で、実現するならば大変興味深いとは思うものの、論であるならば論に過ぎないわけです。勿論それで政界入りするなら何よりも支持します。しかし私はそういう外的な社会変革が幸せに密着するとは、容易に想像するものの、私にとって重要なのは人との出逢いであり、生きる事であり、内面の問題なのです。

もしベーシックインカムが実現するなら、経済の奴隷となっている人間の卑屈さが大幅に解消し、対人関係でもカルマ感覚の育成に絶大な影響を起こすでしょう。絶対的に良くなるはずです。まあ、産業のスピードは著しく低下し、生産性は落ちるでしょうがそれでも唯物的な産業が失速する事はむしろ精神文化には好都合でしょう。しかしながら、結局はシュタイナーが言う『他人とは何であるか?』が明かされる近未来を、カルマ的に感じていく事は、如何なる社会状態であっても可能だからです。戦時中や独裁国家下であれば厳しいかもしれませんが、今の日本の社会状況であればカルマ感覚を育成する事は無理ではない気もするからです。先日のNPOの話も、働き方を変えれば社会意識が変わり、若い世代にあった舵取りができるという次善な”論”ですから、それがカルマ感育成とは直接的には関連しません。

しかし他人とは何かについて、今の社会は回答を持っていないように思います。私としては岡田茂吉の霊線という考え方が実感できるものです。(岡田茂吉の霊線とはあらゆる関係に霊的つながりが発生している、というもの) 私的にはこの霊線つまり人の絆には、多くの関係的な副残物が付随していると思います。まず社会的立場、そして他人の事をどう評価しているのか?という事です。親子、上司と部下、夫婦という関係は、社会的にそして霊的に作用し規定していると実感できます。そして次に、相手を自分はどう評価しているのかが重要です。友人つまり縦的な関係がないほど、社会的な立場は解消されますが、それでも縦というのは霊的には大きな規定を生み出すと思っています。つまり分を超えないように霊的な規定があります。主です。次に相手をどう評価するかという従がきます。私のカルマ感とは、主でも従でもない、もっと細い線だと思っています。

人間には表面的な共感と反感がありますが、従的な要素で、それを取り除くと、何か見えると思うのです。思い出の中で、現在進行形である相手に向かい合う時、共感と反感を超えた人間的な繋がりがあると思えます。この絆が”出逢い”なのではないか?社会的な状況で、相手への共感反感がある中、それに非常に左右されながらも、細い糸がある。縁です。その一次発生する縁とカルマは概念的に異なり、縁によって織られるのがカルマの人間関係的な部分ですが、それが新規発生しているのか、過去からの糸なのかを考えるのが、シュタイナー的なカルマ感覚の育成かと思います。

人間関係を考えると、表面的な共感や反感は、カルマ感覚を阻害しているように思えます。もっと細い糸をたぐって行くと、相手のあり方が毎日の自分に創造的な影響を与えてくれるようにも思っています。機械的に言ってしまうと、自分の内的で霊的な成長と糧を、相手との絆から栄養のように受け取っているように思います。

話を少し変えてみます。キリスト衝動との関連で、キリストとは自我によって、個人の内面によって、ルシファー要素に救済をもたらします。極論して言うと、例え相手がどんな悪人でも、自我がキリスト衝動の力を借りるなら、相手に対して自由を容認できます。今の人間の意識状況は、相手に共感や反感を抱く事は避けられませんが、それはルシファー要素であり、キリストとは関係がないのです。縁として場を共有するという事は、キリストとは直接関係ないものの、自我と自我である以上、何かは存在しています。

この縁というものが他者を通して行なわれる霊界の啓示である事は明白ですが、かといって全ての縁がそうではありません。様々な人間関係は、雑多なものであり得ます。機械と表現できます。自分の内的深化は、この機械の中で行なわれるのです。

で、もし未来のカルマと自分の内的なエネルギーを意識的に考慮しなければならないとしたら、一体この機械の中からどのようなカルマの織物を織るべきなのか?そういった時に、では未来つまり現世と来世を自分はどのように構築したいのかが問われます。それに対し、自分は充分な未来観を持っているのだろうかと考えるのです。縁はどのようにも作られます。問題は自分の認識(展望)の力量なのです。それは極めて個人的な問いですが、運命や宿命といった大きなカルマもまたありえます。つまり外的な社会、機械です。

とはいえ、エーテル的明視の時代が来る場合、そんな意見は陳腐であり、もっと直接的に判るはずです。より相手の本質が判る時が来ます。知覚は鋭敏化され、反感が大きく知覚を低下させるのを実感するでしょう。霊的な直接性については、愛読していたシュタイナー本を誰かに貸してしまい戻ってこないのでこれで止めます。

今日、TVにアメリカの高校で瞑想を取り入れている事が紹介されていました。成績が格段に良くなるという取り組みでしたが、アメリカは本当に日本にない柔軟さがあります。この差に驚くべき事であり、羨ましいとさえ思える自由さがあります。この国の閉塞感は鎖国かと思えるほど固い。

そういえば先日鎖国について書きましたが、16世紀欧米が唯物論に堕ちて行く時、徳川幕府が鎖国したのはやはり驚くべき事です。その反動が維新後の西洋崇拝物質文化崇拝を産んだわけですが、あくまで表面を捉えたのであり、まだ東洋のモルゲンレンダーは眠ったままです。国学や神道を整理できたのも江戸時代ですが、そもそも鎖国は意図的であり、その意図には関心するものの、特に15世紀から現在に至るまでの日本のカルマは検証が必要であると思います。岡田茂吉はこの点には触れていませんが、応仁の乱の細川が、現状の日本をこうして導いてきている事は、小善だと予想しています。

日本は籠の中の鳥、そのように思います。

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