ルドルフ・シュタイナー全著作 全集GA

まず標題に関して。以下で全集が無料で手に入ります。

これは昨日の考察に関して、シュタイナーの論文を探していた所、たまたまある方のブログに載ってました。助かりますね。

さて、早速昨日の続きで、書き残しておく事があります。

シュタイナーの霊界洞察は、岡田茂吉の中にも生きています。岡田茂吉がシュタイナーより20年長生きしていることから、霊界の視点や終末論およびキリスト再臨問題がどうなっているのか、気になる所です。岡田茂吉は1926年、つまりシュタイナーの死の翌年に観音体験を得ています。(観音体験とはシュタイナーでいう、イエスの3年間のキリスト体験をイメージすると判り易い。岡田茂吉は自分をキリストの再来だとはしておらず、観音菩薩的な光の玉が入ったとした。) まず活動する時期が重なっていませんし、岡田茂吉は「キリスト再臨はミロク下生同様、時間の問題である」とだけ言っています。岡田茂吉の霊的考察を私が保証できるわけがありませんが、シュタイナーの霊界洞察(来るべき三原則①他者を通して神秘を体験する②他者が不幸である限り幸福にはならない:あと何だったかな、、)は、岡田茂吉的にいうと基本的に変わらない事項であるという印象を受けます。であるので、エーテル的キリスト再臨問題は、私的には継続するはずですが、シュタイナーの予言は当たらなかったのは、ヨーロッパ的な事情があったのかと推測しています。で、シュタイナー的にはキリスト再臨を人類が逃したわけですから、エポックとしては一旦終了と見做しても、それが継続すると見做しても、大きな差は出ないと思っています。

で、さらに私的にいうと、キリスト再臨問題はとてもキリスト的なイメージを持っています。これは自分が体験してないのでなんとも言えないのですが、私的にはこの超感覚的知覚は、1970年代以降、日本でも発現があると思っています。ですので、エーテル的キリスト体験の核心は、シュタイナーが予想した形?でないにしても、異なった形での発現があると思っています。だからキリスト再臨をイエスの人物的な像としてイメージする必要があるか?と私は思っています。

実際こういう事を言うと、人智学的キリスト者には物議をかもすと思いますが、実際、シュタイナーがエーテル的キリスト体験は他の文化でも異なって体験すると言っています。だからエーテル的知覚の発現にはレベルがあって、像的なイメージを得るのかどうかは、体験してみないと判らないのではないでしょうか。どちらにせよ、エーテル知覚時代はもう始まるはずです。岡田茂吉のいう”時間の問題”とは言葉どおりだと思っています。

ここで一つ問題があります。フリーメイソンは男性原理が女性原理に勝利するように動いたのは歴史の必然でした。今回のエーテル知覚問題には、この事が多分に絡んでいると思うのです。シュタイナーの『神殿伝説と黄金伝説』を読むと、フリーメイソンが聖化される未来は、ずいぶん先のように想定されるものの、私にはそうでもないという実感があります。実は非常に近い50年以内とかに、この歴史の確執は一旦の山場を迎える気もします。

この”神話”は、エーテル知覚問題に際して、もっと言えば、Tの衝撃力である機械操作および超感覚的能力の発現問題に際して、男性原理は女性原理に負ける筈です。それは女性原理が霊的だからです。フリーメイソンは時間を競っており、男性原理が一歩先にエーテル知覚を予想し女性原理より先に獲得するように、文化を先行していますが、自然に起こる超感覚的能力はまさに自然そのものであり、霊的な素養が問題なので、女性原理に分があると言えます。しかしながら、フリーメイソンは知性運動そのものであり、霊的知識はむしろ後付けのものですが、それでも”先行者”である以上、エーテル知覚問題でも先行するかも知れません。

フリーメイソンは復讐の物語であり、贖罪の歴史です。岡田茂吉はイエスが贖罪王としていますが、イエスがこの件で関与しているかは、私には専ら判らないものの、それはスサノヲの復讐と贖罪であると読めるでしょう。ここに贖罪と愛の展開があります。イエスはシュタイナーのいう「ロッジ」の個体、ゾロアスターに似た個体であるならば、それがどう贖罪に関与しているのかはわかりませんが、フリーメイソンのカインはやはり人類の兄であり、兄ゆえの苦悩があって、知性を代弁しています。知性は霊性に劣るというビハインドがあり、しかしながら地球の王位継承権も持っています。ここに王位継承での確執と現在までの復讐を野望としつつも、自分のやっている事の地球に対しての高尚な贖罪の意識があります。

賢過ぎる者しか判らない贖罪の念を持って、地球を破壊しています。一種のゲームであり、それでも、イエスのような贖罪をしうるのだ、と思います。そこに悲しさがあり、イザナギへの母への愛を求めているのです。

岡田茂吉の描いた唯物論の収束は、私には起こらないと今時点では思っています。勿論起こりうるとは思いますが、日本人にとって、このスサノヲ物語をどう捉えるべきなのか、私には不明です。それには地球規模の視点を持たないといけないですし、遥かな過去に遡る歴史を理解しなければなりません。もし人類が直接アカーシャーを認識できるなら、そういう事も可能でしょうが。

フリーメイソンの神殿伝説ではエロヒムの一人とエヴァの子がカインです。別のエロヒムであるエホヴァがアダムを作り、アダムとエヴァの子がアベルです。とすると地球の支配権争いは、エロヒム同士の確執となります。もしかすると、エホヴァとカインの対立は、エホヴァ(エロヒム)とカインの父(エロヒム)のエヴァを捕り合う対立なのかもしれませんね。大本教系の言に、「そもそも色(イロ)が神界に乱れをおこした」というのがありますが、元々はエロさが災いと乱れを起こしたのでしょうか。こうなってしまうと、もはや人間とは遠い神の領域の事ですから、罪がどこにあるのかというよりも、現実感が無くなります。先日の悪の起源の話でも同様で、エロヒムレベルの本性の起源の話であり、仕方のないことです。ただし神道の祝詞にあるように、その事に対して、人間は積み汚れを払うのです。

ユートピア観とディストピア観としてこれまで論じてきましたが、私にはディストピアとしての当事者意識、つまり「この精神的な戦場としての現代」意識が残りました。これは日本という土地ではエーテル明視の発現問題があるという事で、思想的にはそれ以上のスケールで日本的にエロヒムつまりキリスト本体と月のエロヒムであるエホヴァを考えなければならないようです。このディストピア観は、何らかの認識である以上、私には吹き飛ばす種類の観念でしかありません。否定すべきものです。キリスト衝動がもしあるのなら、このような観念ではなく、意志の問題であるべきでしょう。思考や感情が固まり、意志が浮き出ないと本当ではありません。当然、ニーチェでいう美は意志では得られないものですから、意志すら忘れてしまいたいものです。

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