東洋の理想。そしてユートピア

SEKAI NO OWARI っていうバンドがNHKで取り上げられていた。

感銘に近いものを受けたと思う。今まで職場で出会った若い世代から受ける印象が、妙に一致するのだった。若い世代の心の奥から、彼らの正しさが響いてくる。

職場で出会った若い子と話して、純粋な彼らを導いてやりたい、俺は世の中をこう生きるんだというものを残したい、と思ったものだった。特に、新入社員の弟が今自宅でニートになって、家族に当たり困っている、とか、他の社員の彼女が今大学院でニート問題でマスター過程にいる、とか聞くと、若いニートの立場を擁護したいとか、思ってしまう。だから、日本のニートを集めて起業するか!とか冗談で言ってたりした。

シュタイナーの社会論やそもそも政治は、自分にとって避けたい何かだと思っている。しかしシュタイナーの著作を読んでいると、今の社会はもう個人を生存競争に追い込み、人間関係を退化させているようにしか思えない。しかし技術は進歩しつづける。

故・西川隆範氏の翻訳『職業のカルマと未来』(ルドルフ・シュタイナー)をもう長いこと読んでいるが、正直難しい。

今、この本を逆から(後ろから)読んでいる。通常、現代人は”働く”事において深い眠りの状態にあり、ゲーテの場合は一段高い浅い眠りの状態である、とシュタイナーは言う。また現代人は職業生活において未来と過去をカルマ的に認識できないので、深く眠っているようにしか、目の前の仕事の意味が理解できないというジレンマに立たされているのだと。

しかも『職業の意味合い』が現代と中世では変化している事を指摘している。中世では自分の仕事を(狭い範囲で)十全に見通すことができ、それに対して自分の個性を感じる事ができた。一方、現代はネジだけを作る人がいるように分業化が進んで、自分の目の前の仕事と自分の個性の関連が見え難くなってしまった。しかし両者共はカルマ的に言えば未来を生成している。

問題は社会のメカニズムの歯車になる事についてだ。中世では個人が個性が仕事に刻印を与えた。それが仕事への喜びだった。しかしどんどん未来へ進むに従って、個性は仕事を独り立ちさせなければならない、という。つまり仕事を個性というくびきから解放しなければならない。今まで人間は仕事を従属させてきたが、未来ではそういう事が不可能になっていき、個人色が消える。それに供なって、仕事人の志操(つまり善と悪)が反映されるという。

つまり未体験の仕事のありかたが実現されていくらしい。個人色を消して、工場の単純労働者のように、淡々と仕事をする事によって、”仕事そのもの”の力をこの世界に解放する。人間が執着を捨てる度合いによって、反対側の極から何かが成立するという。良い歯車となる事によって、成果が独り立ちし力を持つ

それだけではない。シュタイナーはこういいます:

【職業の発展における純粋に外的な進歩は、人類の絆すべてを解消に導くでしょう。その外的進歩によって人間はますます理解しあえなくなり、人間本性に相応する関係を発展させられなくなるでしょう。人々はますますすれちがうようになり、自分の利益しか求められなくなり、競争以外の関係を築けなくなるでしょう。そうなってはいけません。そうなると人類は完全に退廃するからです。そうならないために、精神科学が広まらねばなりません】

職業、つまり働く方法の進歩は、人生にも影響する事をシュタイナーは指摘しています。この事が、若い世代、およびニートな連中のことを私には思い起こさせます。

だんだんと社会整備が整い、人間は機械の歯車のように、職場に流れ込みます。過去の職制では、まだ仕事そのものに暖かさがありました。今、仕事はマニュアル化が進み、その人でなくても良いようにどんどん整備されつつあります。そこで味わう寂しさって何でしょう?(昔はやりがいがあったけど、、と言う年配の人の話を聞くと、まんざら他人事ではありません。バブルでワイワイやってた時代は過ぎ、世代も交替していきます。)

そう孤独です。しかし、ここでSEKAI NO OWARIは、とても面白い例を提供しています。彼らは自分の周囲の人と運命を共にしたのです。誠実さがあっての成功だと思います。運命共同体を自分たちで作ったのです。しかも出来る事をメンバーが自然に分業したのですから、凄い有機体であり、信頼が根っこにあったのでしょう。

だけど必ずしも成功するとは限らない例を私は知っています。というのも個性的人間はそれほど完璧でしょうか?私も煩悩の塊です。私はシュタイナーを取り入れたある共同体が失敗した例を見ました。経済的に立ち行きませんでした。

でも、という気持ちもあります。共同体という大変さを考えると、普通の人は腰が引けるでしょう。千葉のモルゲンランドも上手く行ってないようです。しかし帰れる場所がある、という安心感を、孤独に替わるものとして、打ち立てる事はできないのでしょうか?

今も若い世代は苦しみながら前進し、絆を求めています。私もこのブログで、人との絆、未来を創ることを考えています。誰とどこで何を共有して??何を基準に人を選び、また自分が世界で何を実現し意志したいのか? 正直なところ、さっぱり分かりませんがw  しかし分かるのは、上記のようにシュタイナーがすでに示唆している事であり、それを考え続けることしかありません。

一点だけ思うのは、誠なのでしょう。正直で、虚偽や夢想がなければ、一時は失敗しても絆だけは残るかもしれない。あとは私に疑問なのはカルマだけです。声です。運命の声。

宮澤賢治がイーハトーブを夢見たように、シュタイナーが未来の小共同体を示唆したように、岡田茂吉が善人同盟や水晶世界について言及したように、未来は動いて行くのでしょうか。

なお、シュタイナーはこの講義で西洋がブルジョア理想を目指し、東洋が巡礼理想を目指している事を示唆しています。

【ブルジョアと巡礼者という理想が対立しています。それがどんな意味を人生に有するかを理解せずにこれからの生活を理解するのは不可能です。何百年前・何千年前の人間は神的・霊的な力に導かれていたので、理解なしに人生向き合うことができました。これからは、人間は人生を理解して生きて行かねばなりません】

シュタイナー曰く、我々はまだ人生を理解していないのです。おそらく、霊的な認識がまだ我々に無いにも関わらず、シュタイナーがこう述べるということは、『職業の意味』がこの対立に大きく左右されているからだと思います。

共産主義はこの観点でいえば、東洋の理想の、西洋的な表現ではないでしょうか。シュタイナーは共産主義の失敗をすでに当時、見抜いていました。思えば、共産の理想は早過ぎたのだと思います。そして雑過ぎた。アメリカを象徴する自由は、人間にとって機械的な共産主義よりも大切なことが、歴史から見えてきます。

まだシュタイナーの時代、今はない中国の理想がありました。西洋と孔子を較べたのです。しかし西洋が孔子の道を進む事にシュタイナーは異を唱えています。今思えば、このアメリカの黄金期を考えると正しいことが判ります。ブルジョア理想では個人の自由が整備され、機械的に法的に物質的に枠が作られようとしています。では東洋理想である巡礼者が目指すものは何でしょうか。

私はそれはユートピア理想ではないか?と今は思います。岡田茂吉や宮澤賢司がそうなのではないか、と。もちろん岡田茂吉はその運動において、人霊の中枢を浄化する浄霊が、核心であると言っています。(浄霊に関しては、施術者は何も考えずに行なうのが正とのこと。ここにも人間の感情は仕事としては介入しないのが原則ですから、不思議なものです)

ともあれ、遺訳となった西川隆範氏のこの本に、感謝を表したいと思います。

みんなが幸せになる。とても良い響きではないでしょうか。社会全体がそのような雰囲気になるように、システムを変えられればと本当に思います。ニートだってなんだって権利はある筈です。(しかしシュタイナーもキリストも実はこのSEKAIの終わりをユートピアとして叙述してはいないのがまた恐い所で、岡田茂吉は徹底してユートピアとして叙述するのです。私はユートピアに一票)

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