ハワイに無いもの

今回は一カ月ハワイに居たが、言葉に出来ない違和感があった。昼にイタリアンのArancinoに一人でぶらっと入って、ガラりと何かが露呈した。テラスにはゴッドファーザーの曲が流れていた。

IMG_0781ハワイには『ロマ』(ジプシー)的なものが感じられない?情熱か?と思ったが、レストランに入って、イタリアの空気とハワイの空気がどれほど違うのかに気がついた。(写真:Arancinoの有名ウニパスタ。これで4000円。Incredibile!!!)

若い頃イタリアに住んだからなのか、ここがアメリカだからなのか 、自分にはハワイに『ある種の欠乏』がある。ただ、それが何なのかはハッキリとはわからないのだ。

思い出せばスイスに住んでいた時もあったような『表層意識にはあまり昇らないような違和感』。もちろん、どこに住んでも土地や文化が違うわけだから、どちらにせよ無意識的な抑圧はあるに決まっている。味噌汁が飲めないから、という以外でも、文化が直接的に無意識に働きかける要素は大きい。

結局、人間って非常に複雑だから、その土地にいる時には気がつかない事を知らなくても生きていける。いわゆる楽しく。しかしカルチャーショックってのはもっと分かりやすい形ではなく、非常に微細な味付けも含まれていて、”立体的”な構成を持っているのではないか?

ここまで考えると、自分の日々の日常意識でさえ、疑いの眼差しを持たざるを得ない。たとえばー:

人間は死ぬと意識も終わる、と考えて生きるのと、死んでも意識は旅を続ける、と考えてながら生きるのと、社会的には大きな違いが出てくる。どれほど人間はバイアスに捕われなければならないか、そして自由とはバイアスを排除し続けて得られるものだとしたら、どれほど自由が得難いものなのか考えさせられる。

シュタイナーがこのような偏見を排除する方法として、思考の徹底を示唆しているが、とても大変な事だと思う。思考は根のように深くそして孤立した世界に誘うが、それをキープする力は相当なものではないのか?隠者こそ、自由になれる気がする。知や思考は何のために掘り下げるのだろうか。そこには何があるのか。

ファウストは世界の核が観たいと望んだ。無駄な思考活動に嫌気がさした。思考は間違った前提だと無駄が発生する。真に効率的な思考は、正しい条件下でしか解答には導かない。思考の生産性を考えると、深く掘り下げてバイアスを排除する行為は、理にかなっている。それは何のため、というよりも思考の性質だから。

だから真実を探求する事が思考の性質。それは効率的・生産的に生きようという態度の現れだ。しかしその求心力だけで世界は成り立つわけではない。求心力は再生産が目的であるが、どうしても何のため?と問わざるをえない。

シュタイナーが言った言葉が気になる。この現実世界で真実なのは”死”のみである、と。そのとおりであり、そこから”先”がある。我々のバイアスでは、死は終わりである。実際、ファウストも死を選んだ。考える者は最終的には死に向かう。そして我々のバイアスでは死は終わりなのであり価値の消失であるが、そうではない。死という敷居を踏み越えること、哲学の目的は性質的に再構築を担っている。そして思考の意味とは再構築する力を蓄える事ではないのか。死を超えても有効な再現力を目指している。

生は燃焼であるとしたら、死は氷のようなものだ。

科学的に言うと、生は酸化であり、死は還元だ。つまり還元は生にとって、悪である。基本的に生は社会生活でも燃焼する。食物を燃焼し、想いを焦がし、熱を供なって走り続ける。そのような生にとって、死は非生産的に映るが、覚醒に対する睡眠のように、死は生に治癒的に作用している。覚醒している者は眠りを否定する事が愚行だと経験的にしか知らない。意識は火のように明かりが必要だが、意識は燃える事しか知覚できないから。神でさえ、創造的な自分の行為を観ることはできなかった。そのように意識とは限定的なカラクリがある。食物が酸によって燃えても、栄養素としては還元されていくが、死も思考も生のパワーを使って存在している。生の成果を死が活用する。生が不完全であれば、死が発生する。死や思考がフィードバック機構である。

イザナギとイザナミが生と死を3:2に分けたが、生である現実世界にとって、死はどうしてこうも嫌われ者なのだろうか。意識というカマロカで燃える生。その中に悪を持っている。生の中に悪が混じったから、死は善を目指している。知的に生きる、とはどこか犠牲の臭いが付いて回る。その犠牲臭がより大きな贖罪を求めて、思考による善つまり真実の探求をさせるのではないのだろうか?

 

 

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